イタリアの統一
イタリアの統一とは、19世紀を通じて分裂状態にあったイタリア半島の諸国家が、サルデーニャ王国を中心として統合され、1861年にイタリア王国として成立し、1870年ローマ併合によってほぼ現在の姿に近い国民国家を形成した歴史的過程である。フランス革命とナポレオン支配の経験、ウィーン体制下でのオーストリア支配への反発、自由主義や民族主義の高まりなどが複合的に作用し、政治外交のみならず社会・文化の広い領域に影響を及ぼした出来事である。
統一前のイタリア世界
ウィーン会議後のイタリア半島は、サルデーニャ王国、ロンバルディア=ヴェネツィア、教皇領、トスカナ大公国、両シチリア王国など多数の国家に分裂していた。北部ロンバルディア=ヴェネツィアはハプスブルク家のオーストリア帝国の支配下に置かれ、半島全体に強い影響力を行使していた。ナポレオン時代に経験した統一的な行政・法制度の記憶はなお人々の中に残り、それが19世紀前半の「リソルジメント(復興)」と呼ばれる民族運動の思想的基盤となったのである。こうした状況は、後にドイツ統一を論じた思想家ニーチェが批判したウィーン体制ヨーロッパの保守秩序とも共通性を持っていた。
リソルジメントと民族運動
19世紀前半、イタリアでは自由主義者・民族主義者による秘密結社や反乱が繰り返された。代表的人物がジュゼッペ・マッツィーニであり、彼は「青年イタリア」を組織し、共和主義と民族自決を掲げて全イタリアの解放と統一を訴えた。1830年代から40年代にかけて各地で起こった蜂起は多くが鎮圧されたが、統一への理想を広く伝える役割を果たした。1848年革命ではミラノの「5日間蜂起」やヴェネツィア共和国の樹立など、オーストリア支配への抵抗が高まり、サルデーニャ王国も対墺戦争に踏み切ったが、最終的には敗北し、統一は一時挫折した。この時期の理想主義的な民族運動は、ドイツ観念論やのちにニーチェが論じたロマン主義的民族思想とも共鳴していたとされる。
カヴールの外交と第二次イタリア独立戦争
統一運動が具体的な成果を挙げる契機をつくったのが、サルデーニャ王国首相カミッロ・カヴールである。彼は急進的共和主義ではなく立憲君主制と漸進的改革を志向し、鉄道建設や関税改革など経済近代化を進めて国力の増大を図った。また、イタリア問題を国際政治の議題に押し上げるため、クリミア戦争に参戦して英仏と協調関係を築き、ナポレオン3世との間でプロンビエール密約を結んだ。これにより、1859年の第二次イタリア独立戦争でサルデーニャはフランスの援助を受けてオーストリアと戦い、ロンバルディアの獲得に成功したのである。
クリミア戦争と列強への接近
- サルデーニャ王国は、国力に比して小さくない兵力をクリミア戦争に派遣し、対ロシア戦に参加した。
- 戦後のパリ講和会議でカヴールは、オーストリアによるイタリア支配の問題を国際的な場で訴えることに成功した。
- この外交的成功は、のちにナポレオン3世との軍事同盟につながり、イタリア統一の決定的局面を用意したと評価される。
こうした現実主義的外交は、後世の政治思想家サルトルが議論した「歴史の中で行為する主体」の問題とも関連づけて論じられることがある。
ガリバルディの「千人隊」と南部の併合
軍事的英雄として知られるジュゼッペ・ガリバルディは、カヴールとは異なる急進的な共和主義者であったが、結果として統一に大きく貢献した。1860年、彼は義勇軍「千人隊」を率いてシチリア島に上陸し、農民蜂起の支持を得ながら両シチリア王国を短期間で制圧した。ガリバルディは当初、共和制樹立を構想していたが、分裂を避けるため妥協し、征服地域をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上した。テアーノでの両者の会見は、革命と王権の妥協として後世まで語り継がれている。この南部併合によって、イタリア半島の大部分が事実上サルデーニャ王国の支配下に入ったのである。
イタリア王国の成立と統一の完成
1861年、トリノで召集された議会は「イタリア王国」の樹立とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のイタリア王即位を宣言した。しかし当時なおヴェネツィアとローマは外にあり、形式上は完全な統一ではなかった。1866年、プロイセン=オーストリア戦争に際してイタリアはプロイセンと同盟を結び、敗北を喫しつつも講和条件としてヴェネツィアの割譲を受けた。さらに1870年、普仏戦争の勃発によりローマを守備していたフランス軍が撤退すると、イタリア軍はローマに進軍して併合し、統一は名実ともに完成した。教皇はこの併合を認めず「バチカンの囚人」と自称したため、教皇権と王国政府の対立、いわゆるローマ問題が20世紀初頭まで続くことになった。
ヴェネツィアとローマの編入
- 1866年の講和により、ヴェネツィアは住民投票を経てイタリア王国への編入を選択した。
- 1870年のローマ併合では、城壁の一部を砲撃して入城するなど軍事行動も伴い、カトリック世界に緊張を生んだ。
- ローマは1871年、正式にイタリア王国の首都と定められ、新国家の象徴的中心となった。
統一後の課題と歴史的意義
統一を果たしたイタリア王国は、中央集権的な行政制度の導入や徴兵制の整備、鉄道網の拡充など近代国家としての基盤づくりを進めた。しかし、北部の工業化地域と農業中心の南部との経済格差、方言や文化の違い、旧支配層と新政権の対立など多くの矛盾を抱えていた。とりわけ南部では、徴税強化や徴兵への反発から盗賊とみなされた抵抗運動が続き、「南部問題」として長期的な社会問題となった。こうした現実は、統一が政治的には成功しても「イタリア人」という国民意識の形成が自動的には進まなかったことを示している。
国民国家形成と思想への影響
19世紀のヨーロッパにおける国民国家形成の過程の中で、イタリアの統一はドイツ統一と並び、民族自決とバランス・オブ・パワーの再編という二つの要素を兼ね備えた事例であった。ドイツの哲学者ニーチェは、こうした国家と民族の昂揚を批判的にとらえつつ、人間の力への意志を論じたが、その背景には統一後ドイツやイタリアの国民国家が生み出した新しい政治現実があったといえる。20世紀に入ると、実存主義の思想家サルトルは、歴史的状況の中で選択し行動する個人の責任を強調し、ナショナリズムや植民地主義をめぐる議論にも影響を与えた。また、統一と近代化の過程で進んだ工業化・電力利用は、電位の単位ボルトに名を残すイタリア人科学者ヴォルタらの業績とも結びつき、科学技術と国家建設の関係を象徴している。イタリアの経験は、政治統一と社会統合のギャップ、地域格差や少数派問題など、近現代の国民国家が直面する課題を考える上で重要な歴史的素材であり続けている。