アレクサンデル6世
アレクサンデル6世は、ボルジア家出身のローマ教皇で、1492年から1503年まで在位した人物である。スペインのバレンシア地方に生まれ、俗名をロドリーゴ=デ=ボルハといい、教皇カリストゥス3世の甥として若くしてローマ教会の高位聖職者となった。彼の治世は、教皇家の権力拡大と縁故主義、さらにイタリア諸国をめぐる政治・軍事闘争が絡み合う時期であり、後世には「堕落した教皇」の典型として描かれることが多い。他方で、中央イタリアにおける教皇領の再編や、ヨーロッパ列強による海外進出に際して教皇権を行使した点など、近世ヨーロッパ政治の形成に大きな影響を与えた教皇でもある。
生涯とボルジア家の出自
ロドリーゴ=デ=ボルハは15世紀前半、後にスペイン王国の一部となるアラゴン領バレンシアで生まれた。叔父カリストゥス3世のもとで早くから法学と教会行政を学び、枢機卿に昇進してローマ教会の財政や外交を担当した。ボルジア家はイベリア半島の貴族出身であり、ローマ政界においても世俗的名門として台頭していった。このような家柄と政治的手腕が、後の教皇選出の基盤となった。
教皇選出とローマ政治
1492年の教皇選挙で、ロドリーゴは多くの枢機卿に金銭や地位を約束したとされ、その結果として教皇に選出されたと伝えられる。この過程は、教皇庁内部の腐敗や買職の象徴として語られてきた。即位後、彼はローマにおける治安維持や都市整備にも取り組み、テヴェレ川沿いの防備や通りの整備を進めたが、同時に親族や側近へ要職を与えたため、教皇庁はボルジア家の私的権力基盤とみなされるようになった。こうした統治スタイルは、後の宗教改革期にローマ教皇への批判として再生産されることになる。
ボルジア家と縁故主義
彼の治世で最も悪名高い点は、子どもたちへの徹底した縁故主義である。長男フアンには教皇領内の軍事指揮権と公爵位を与え、チェーザレ=ボルジアには枢機卿位と軍事的役割を与え、ルクレツィア=ボルジアは諸侯との政略結婚に利用された。チェーザレは教皇権を背景に中部イタリアの諸都市を攻略し、教皇領の再編と中央集権化を進めたが、その過程で強権的な支配と陰謀が噂され、ボルジア家の名声をさらに毀損したと伝えられる。
イタリア戦争と外交政策
在位中、イタリアはフランス王国とスペイン王国が介入するイタリア戦争の舞台となった。教皇はフランスとスペインの間で同盟関係を変えつつ、自らの家門と教皇領の利益を最大化しようとした。とくにナポリ王国をめぐる紛争では、時にフランス王を、時にスペイン王を支持し、その見返りとしてボルジア家の領地確保を図った。このような現実主義的外交は、道徳的観点から批判される一方で、分立するイタリア諸国の中で教皇庁が世俗君主として行動していたことを示している。
新世界発見と教皇子午線
ヨーロッパが大西洋航路を開拓し、新世界との接触を強めた時期に、彼は教皇として仲裁者の役割も果たした。スペイン王権はコロンブスの航海を通じて西方の海域に進出し、新たな領有権を主張したが、同じく海外進出を進めるポルトガル王国との間で対立が生じた。これに対し教皇は、いわゆる教皇子午線を定める勅書を発し、ある経線を基準として西側をスペイン、東側をポルトガルの勢力圏とする構想を打ち出した。この線は後に諸条約によって修正されるものの、ヨーロッパ列強による植民地分界線の先駆けとみなされる。また、新世界の領土や住民を総称するインディアス、カリブ海域の西インド諸島などの概念も、この時期の教皇勅書と深く結びついて形成されていった。
海外布教とカトリック世界
大航海時代において、教皇は新たに発見された諸地域をキリスト教世界に組み込む権威として想定されていた。勅書によってスペインやポルトガルに布教と支配の権限が与えられ、新世界はカトリック世界拡大の舞台となった。こうした仕組みの基盤には、ローマ教皇が世俗君主の間の仲裁者としても行動し得るという中世以来の観念があり、その最晩期的なあらわれとしてアレクサンデル6世の政策を位置づけることができる。
死と後世の評価
1503年、彼はローマで急死し、その死因をめぐっては毒殺説などさまざまな噂が残された。死後、ボルジア家の勢力は急速に衰退し、教皇庁は次第に改革の必要性を認識していくことになる。近代の歴史叙述において、この教皇は享楽と腐敗の象徴として描かれる一方、教皇領の再編や海外分割への関与を通じて、ヨーロッパの政治秩序と世界史的な権力構造に深い痕跡を残した人物とも評価されている。彼の治世を理解することは、ルターに始まる宗教改革以前のローマ教皇制、そして大航海時代におけるヨーロッパ世界の拡大過程を考えるうえで欠かせない視点となる。