ジャン=ド=ブリエンヌの十字軍|エルサレム王が率いた第5回遠征軍

ジャン=ド=ブリエンヌの十字軍

フランス貴族ジャン=ド=ブリエンヌは、1210年にエルサレム女王マリー・ド・モンフェラの夫として即位し、その後は娘イザベラ2世の摂政として王国防衛の先頭に立った。彼が主導した遠征は第五回十字軍の中核をなし、エジプトの港湾都市ダミエッタ攻略(1218–1219)からカイロ進撃(1221)に至る一連の行動で特徴づけられる。とりわけ彼はパパル・レガト(教皇使節)ペラギウスとの指揮権・戦略をめぐる緊張関係の中で、現実的な停戦・領土交換を志向した点に独自性がある。すなわち、アイユーブ朝からエルサレム返還と引き換えにダミエッタを返す提案を重視したが、強硬派の反対で流れは変わり、ナイルの増水に呑まれたカイロ進撃が総退却とダミエッタ返還へと帰結した。こうしてジャン=ド=ブリエンヌの十字軍は、軍事的勝機を政治的成果に結びつけ損ねた典型事例として歴史に刻まれる。

即位と出陣の背景

教皇インノケンティウス3世はラテラノ公会議(1215)で新たな十字軍を組織し、聖地回復のための長期計画を打ち出した。ブリエンヌは王国の名目上の君主でありながら、周辺イスラーム勢力と向き合う前線の統率者でもあった。1217年にはハンガリー王アーンドラーシュ2世やキプロス王ユーグ1世らが聖地に到着し、諸侯の関心はエルサレム奪回の最有力拠点と目されたエジプトへ向かうことで一致していく。これは聖地防衛を支える穀倉地帯と交易路を断ち切る、いわば間接戦略であった。

ダミエッタ攻略の経過

1218年、連合軍はナイル・デルタのダミエッタを包囲し、河上に架かる鎖や塔を破壊して港湾への接近を確保した。翌1219年には都市が陥落し、十字軍は重要な橋頭堡を獲得した。ブリエンヌは補給・治安・交渉の三点を重視し、戦果の政治化を急がず、拙速な内陸進撃を戒めた。彼は同年の時点で、アイユーブ朝の分裂と交渉の余地を冷静に評価し、都市占領をテコにエルサレム返還を引き出す可能性を模索したのである。

和平提案と戦略対立

エジプト側のアル=カーミルは、聖都と一部沿岸都市の返還と引き換えにダミエッタ返還を提案した。ブリエンヌはこの案を受け入れる柔軟性を示したが、教皇使節ペラギウスは「軍事的優位を保持する今こそカイロを狙うべき」と主張し、諸侯の間にも強硬論が広がった。ここに、軍事の勢いで最終解を迫るか、外交で着実な領土回復を図るかという路線分岐が生じ、最終的に強硬路線が採用された。

1221年カイロ進撃と撤退の原因

  • ナイル増水期の地勢無視:進軍時期が悪く、湿地化と氾濫で補給線が寸断された。
  • 統一指揮の欠如:ブリエンヌの慎重論とレガト側の攻勢論が併存し、即応判断が遅れた。
  • 交渉の機会損失:早期の領土交換案を退けたことで、戦果を政治的利益に転化できなかった。
  • 結果:包囲と混乱ののち休戦・撤退、ダミエッタは返還され、戦略的優位は失われた。

聖地政治とフリードリヒ2世

摂政としてのブリエンヌは、王国の生存戦略を「現実的外交」と「防衛の持続性」に置いた。1225年、彼は娘イザベラ2世を神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に嫁がせ、王国の後ろ盾を拡大した。この婚姻はやがて第六回十字軍の外交的成果へとつながるが、ブリエンヌ自身は指揮権を譲り、王国統治から一歩退くことになった。

コンスタンティノープルでの晩年

1229年以降、ブリエンヌはラテン帝国の摂政としてコンスタンティノープルを防衛し、東地中海における十字軍勢力の秩序回復に努めた。高齢に達しながらも軍政の経験を生かし、包囲と財政難に直面する帝国の延命に寄与した。ここでも彼の資質は、短期的勝利より持久と交渉を重視する現実主義として表れた。

史料と評価

同時代の司教ジャック・ド・ヴィトリや参加僧兵の記録は、ブリエンヌの慎重さと、宗教的熱情に駆動された強硬論の対立を伝えている。近代史学は、彼を「勝利の政治利用」を重んじた実務的な司令官と位置づけ、失敗の主因を指揮権分裂と環境判断の誤りに求める傾向が強い。他方で、彼の交渉重視は、十字軍運動の後期に見られる「軍事から外交への重心移動」を先取りした試みでもあったと評価される。

関連項目