中ソ不可侵条約
中ソ不可侵条約とは、日中戦争の勃発直後である1937年8月に、中華民国とソビエト連邦のあいだで締結された不可侵条約である。両国が相互に武力による侵略を行わないことを骨子とし、対日戦争下の中国にとっては対外支援を取り付ける外交的枠組みとなり、ソ連にとっては極東での安全保障上の緩衝を確保する意味を持った。
成立の背景
1930年代後半、東アジアでは満州事変以降の日本の勢力拡大が続き、1937年7月の盧溝橋事件を契機に日中戦争が全面化した。中国側は長期戦に備えるため、武器・航空機・資金などの外部支援が不可欠となり、とりわけ欧米が慎重姿勢を崩さないなかで、現実的な供給源としてソ連の存在が大きくなった。一方のソ連は、欧州での緊張の高まりをにらみつつ、極東で日本と直接衝突するリスクを抑えながら、中国を支えることで日本の戦力を大陸に拘束し、自国防衛上の余地を得ようとしたのである。
締結と条約の性格
この条約は、同盟条約のように共同で参戦する義務を定めたものではなく、あくまで「相互不侵略」を確認する政治的合意である点に特徴がある。言い換えれば、中国に対する支援を制度的に後押ししつつも、ソ連が日本との全面戦争に巻き込まれることを避けるための安全弁も含んだ枠組みであった。中国側にとっては、国際社会に対して「背後に大国の支援がある」ことを示す外交上の効果も期待された。
主な内容
条約文の基本構造は、当時広く用いられた不可侵条約の定型に沿うもので、概ね次の点が中心となる。
- 両国は相互に武力で攻撃せず、紛争は平和的手段で処理すること
- 一方が第三国から攻撃を受けた場合、他方は攻撃国を援助しないこと
- 条約の有効期間を定め、満了時に更新し得ること
ここで重要なのは、条約が「中国防衛のための参戦義務」を明文化していない点である。これにより、ソ連は支援の余地を確保しながらも、対日関係を全面対決へ直結させない設計を取り得た。他方で中国は、不可侵の確約を得ることで北方からの脅威を相対的に低下させ、対日戦に資源を集中しやすくなった。
日中戦争への影響
中ソ不可侵条約は、直後の対中支援の拡大と結びついて理解されることが多い。ソ連は中国に対して軍需物資や航空戦力の供与を進め、航空機や関連装備の提供、操縦・整備に関する人的支援などが行われたとされる。特に航空戦力は当時の中国にとって不足が著しく、初期の防空・航空作戦に一定の寄与を与えた。また、地理的条件から、内陸側のルートを用いた補給・輸送の重要性も増し、周辺地域を含めた後方連絡の確保が対外支援の現実性を左右した。
国際政治上の含意
この条約は、東アジアの戦争を「地域紛争」から「大国の利害が絡む問題」へと変質させる一要素となった。中国は、ソ連との関係を足場として欧米の態度変化も促そうとし、対外宣伝や外交交渉において、支援獲得の可能性を示すカードとして作用した。ソ連側も、中国支援を通じて日本の軍事的余力を削り、極東の圧力を緩和する狙いを持ちつつ、欧州正面の不確実性に備える時間を稼ぐ効果を期待したのである。
限界とその後
もっとも、不可侵条約は同盟ではないため、戦局を根本から転換する決定打になったとは言い難い。ソ連の対中関与は国際情勢に強く左右され、1939年の欧州戦争の拡大、さらに1941年の独ソ戦開始によって、ソ連の戦略上の優先順位は大きく変化した。その結果、対中支援の規模や性格は調整を迫られ、中国側は多元的な支援源の開拓を進めざるを得なくなった。戦後にかけては、1945年に別種の条約枠組みが形成されるなど、中ソ関係は新たな段階へ移行していくが、1937年の中ソ不可侵条約は、日中戦争期における中国の対外戦略とソ連の極東戦略が交差した象徴的な合意として位置づけられる。