ジンナー
ムハンマド=アリー=ジンナー(Muhammad Ali Jinnah, 1876-1948)は、英領インドから分離して成立したパキスタンの「建国の父」とされる政治指導者である。インド国民会議派と全インド=イスラム連盟(全インド=ムスリム連盟)の双方に関わりつつ、インド・ムスリムの政治的代表として振る舞い、最終的にパキスタンの独立を実現した。彼の歩みは、植民地支配からの独立運動、宗教共同体を軸とする国家構想、そして南アジア分割という20世紀世界史の核心的問題を示すものである。
生い立ちと法曹としての出発
ジンナーは1876年、英領インド西部の商業都市カラチで、イスラーム教を信仰する商人家庭に生まれた。青年期にロンドンへ留学し、法学院で英法を学び、弁護士資格を取得している。この経験により、彼はイギリスの議会制や立憲主義に深い関心を抱き、憲法と法の支配を重んじる政治家としての基盤を形成した。同時代のヨーロッパ思想、とりわけ近代的個人の自立を強調した議論は、のちにニーチェやサルトルの思想として知られる潮流とも重なり、植民地エリートである彼の視野を広げる要素となった。
インド国民会議派とヒンドゥー=ムスリム協調
帰国後のジンナーはボンベイ(ムンバイ)で弁護士として活躍しつつ、インド人の自治拡大を求めるインド国民会議派に参加した。当初の彼は宗教を超えたインド民族の統一を重視し、ヒンドゥー教徒とムスリムの協調路線を説いたことで知られる。第一次世界大戦期には会議派と全インド=イスラム連盟の協定(ラクナウ協定)を仲介し、ムスリムに一定の議席保証を与えることで両者の協調を図った。この段階の彼は、のちにフランスの思想家サルトルが論じたような個人の自由と責任を尊重する立憲政治の信奉者として理解できる。
全インド=イスラム連盟の指導者へ
しかし20世紀前半、選挙制度の拡大や地方分権、ヒンドゥー多数派の台頭が進むにつれ、ムスリム側には政治的周縁化への不安が強まった。しだいにジンナーは会議派から距離を置き、全インド=イスラム連盟の指導者として、ムスリムの「分離選挙」や保護を強く主張するようになる。議席配分や自治の枠組みをめぐる交渉は、まさに法廷での弁論に似た緻密な論理の積み重ねであり、そこでは法技術や条文操作が重視される点で、工業製品のボルト1本に至るまで規格化を進めた近代技術社会のあり方とも通じていた。
二国家理論とパキスタン要求
1930年代後半、インド政治は自治拡大と憲政改革をめぐり揺れ動き、宗教共同体ごとの利害対立が鮮明になった。こうしたなかでジンナーは、ムスリムとヒンドゥーは歴史・文化・宗教を異にする「二つの民族」であり、それぞれが独自の政治的単位を持つべきだと主張する「二国家理論」に傾斜する。1940年のラホール決議は、ムスリム多数地域における独立国家構想を掲げ、これがパキスタン要求の公式な出発点とされた。この転換は、指導者を「民族の象徴」とみなす政治文化の形成とも結びつき、ヨーロッパでニーチェの思想がしばしば「強い指導者」礼賛として誤読された状況とも比較される。
インド分割とパキスタンの建国
第二次世界大戦後、イギリスのインド放棄が現実味を帯びると、会議派は統一インド国家を、全インド=イスラム連盟はムスリム国家パキスタンを主張し、交渉は平行線をたどった。最終的に宗教境界線に基づくインド分割が決定され、1947年にインド連邦とパキスタンが相次いで独立する。パキスタン建国後、ムハンマド=アリー=ジンナーは初代総督に就任し、首都カラチから行政機構の整備や難民問題への対応に取り組んだ。だが暴力を伴う大規模な住民移動や、領土紛争などの課題は重くのしかかり、近代国家の制度設計は、工業化社会を支えるボルトのような細部の調整を含め、時間を要することが明らかになった。
政治理念と少数者保護
ジンナーはイスラームに基づくムスリム共同体の権利を主張した一方で、パキスタン建国後には宗教の違いを超えた市民的平等を演説で訴えたことでも知られる。彼は法の支配と議会政治を重視し、個人の信仰は国家が干渉すべきでないと強調した。この姿勢は、植民地主義批判を展開したサルトルなど20世紀思想家の議論とも響き合う部分を持ち、宗教国家と世俗国家のあいだで揺れるパキスタン政治の基準点として評価されている。
歴史的評価と南アジアへの影響
パキスタンにおいてムハンマド=アリー=ジンナーは「カイデ=アーザム(偉大な指導者)」として国父視され、その肖像は紙幣や官公庁に掲げられている。一方、インド側からは、分割と宗教対立を決定的にした政治家として批判的に語られることも多い。近年の歴史研究では、彼を単純な宗教原理主義者とみなすのではなく、立憲主義的自由主義とムスリム共同体の安全保障を両立させようとした現実主義者として捉える視点が広がっている。植民地支配、民族主義、宗教、近代思想の交錯という点で、その生涯はニーチェやサルトルの時代と同じ20世紀の精神史と密接に結びついており、南アジア世界の理解に不可欠な存在である。