ネルー|インド独立の指導者

ネルー

ジャワハルラール・ネルーは、イギリス植民地支配下のインドで独立運動を指導し、1947年の独立後には初代首相として長期政権を担った政治家である。ガンディーが道徳的・宗教的権威として独立運動を導いたのに対し、ネルーは近代的教育を受けた世俗的指導者として、議会政治と計画経済を軸に近代国家インドの骨格を築いた人物と位置づけられる。

生い立ちとイギリス留学

ネルーは1889年、北インドのアラハバードに裕福なカシミール系バラモン家庭の子として生まれた。父モティラール・ネルーは著名な弁護士で、のちにインド国民会議の有力指導者となる人物であった。家の経済的余裕に支えられ、ジャワハルラール・ネルーは少年期にイギリスへ留学し、名門パブリックスクールを経てケンブリッジ大学で学んだのち、ロンドンの法曹院で法律を修めた。この時期に彼は自由主義や社会主義、サティヤーグラハの背景にある西欧思想など、さまざまな政治思想に触れ、のちのインド像の構想を練っていったとされる。

インド国民会議と独立運動への参加

1912年に帰国したネルーは、一時は弁護士として活動したが、次第に父と同様にインド国民会議の政治活動に専念していく。第一次世界大戦後、インドではアムリットサール事件を契機に反英感情が一気に高まり、ムスリムを中心とするヒラーファト運動とヒンドゥー社会の運動が結びついて、大衆的な非協力運動が展開された。ネルーは若き指導者としてガンディーのもとに集い、イギリス製品のボイコットや官職辞退、ストライキなどを通じて、非暴力による抵抗運動に積極的に関わっていった。

急進化と完全独立の要求

1920年代、ネルーは次第に急進的な民族主義者・社会主義者としての性格を強めた。イギリスが派遣したサイモン委員会がインド人を一人も含まないまま政治改革案を検討したことに対し、彼は「インドの運命はインド人自身が決めるべきだ」として強く反発する。父モティラールらが参加した憲政改革調査委員会で自治拡大が議論される一方、若いネルーは「自治領」ではなく「完全独立(プールナ・スワラージ)」を掲げ、1929年のインド国民会議ラホール大会で独立決議を採択させる中心的役割を果たした。

投獄体験と思想形成

1930年代から40年代初頭にかけて、ネルーは非暴力不服従運動(第1次)や「クィット・インディア」運動に関与したことで幾度も投獄された。獄中で彼はインド史や世界史を読みふけり、著書『インドの発見』などを通じて、多民族・多宗教からなるインドを一つの国民国家として統合するビジョンを練り上げていく。同時にヨーロッパの社会主義運動やインド共産党の動きにも関心を寄せつつ、民主的議会制と計画経済を組み合わせる「インド型社会主義」を模索した点が特徴である。

宗教対立と分割独立

第二次世界大戦末期から独立直前にかけて、インドではヒンドゥー教徒とムスリムの対立、いわゆるコミュナリズムが激化し、ムスリム側はパキスタンとしての分離独立を要求した。ネルーは宗教を国家から切り離した世俗主義国家構想を掲げて、ヒンドゥー・ムスリムの共存をめざしたが、流血を伴う暴動の中で最終的にはインドとパキスタンの分割独立を受け入れざるをえなかった。1947年8月、インドが独立すると、ネルーは初代首相に就任し、以後1964年に没するまで長期政権を担うことになる。

首相としての国内政策

首相となったネルーは、ガンディーの思想やヒンドゥ=スワラージの理想を踏まえつつも、実際の政治運営においては近代工業化と計画経済を重視した。彼の国内政策は、おおむね次のような柱から成っていたと整理される。

  • 議会制民主主義と成文憲法にもとづく統治構造の整備
  • 宗教を国家から切り離した「世俗国家」としてのインド像の追求
  • 国家主導の計画経済と重工業育成による急速な近代化
  • 地主制の解体などを通じた農地改革と農村開発政策
  • 教育・科学技術振興機関の整備による人的資本の育成

こうした路線は、農村の自立や手工業を重視したサティヤーグラハの精神とは緊張関係をはらみつつも、人口の多い大国インドを短期間で近代国家へと転換させるための現実的選択として理解されている。

非暴力・非同盟と対外政策

ネルーは対外政策の面でも、非暴力不服従の理念を発展させた独自の方針を打ち出した。冷戦構造のもとで米ソいずれの陣営にも正式には属さない非同盟路線を掲げ、主権尊重・内政不干渉・平和共存を基本原則とする外交を進めたのである。アジア・アフリカ諸国の首脳と連携して平和会議を主導し、植民地支配から解放された新興諸国の声を国際社会に届けようとした点で、彼はインド国内だけでなく「第三世界」の代表的指導者として国際的な存在感を持った。

ネルー像の多面性

他方で、ネルーの路線は一枚岩ではない。大規模な工業化政策や官僚制的な計画経済は、行政の非効率や貧富の格差を十分には克服できず、彼の死後には改革の必要性が繰り返し議論された。また、独立運動時代のストライキやハルタールなど、大衆運動のエネルギーを議会制民主主義の枠組みにどこまで組み込めたのかという点も、研究者のあいだで検討が続いている。それでもなお、植民地支配と宗教対立が交錯する中で、非暴力の伝統と近代国家建設とを結びつけようとしたジャワハルラール・ネルーの試みは、20世紀インド史を理解するうえで欠かすことのできない中心的テーマである。

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