ワシントン会議|海軍軍縮と太平洋秩序の国際会議

ワシントン会議

ワシントン会議は、1921年から1922年にかけてアメリカ合衆国ワシントンで開かれた国際会議である。第一次世界大戦後に高まった海軍軍拡競争を抑制し、太平洋と極東の国際秩序を再編することを目的として開かれ、海軍軍縮条約や太平洋地域の現状維持に関する諸条約を生み出した。

開催の背景

ワシントン会議の背景には、第一次世界大戦後の講和体制であるヴェルサイユ体制の成立と、それを補完する安全保障枠組みの必要性があった。戦後も列強の海軍建艦競争は続き、財政負担は各国に重くのしかかった。とくにアメリカ合衆国と日本のあいだでは、対中政策や太平洋の島嶼支配をめぐる対立が深まり、旧来の日英同盟の下で維持されてきた勢力均衡は揺らいでいた。この不安定さを調整し、軍備と外交の両面から新たな秩序を構想する場としてワシントン会議が構想されたのである。

会議の構成と参加国

ワシントン会議には、開催国アメリカのほか、イギリス、日本、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、そして極東問題の当事者である中国などが参加した。会議は、主として海軍軍縮を扱う部分と、太平洋および極東問題を協議する部分に分かれて進められた。形式としては、全体会議のほかに、利害の近い列強が集まる小委員会や非公式協議が重ねられ、複数の条約が並行して交渉された。

ワシントン海軍軍縮条約

ワシントン会議でもっとも重要な成果とされるのが、いわゆるワシントン海軍軍縮条約である。これはアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの主力艦保有量を、基準排水量に基づきおおよそ5:5:3:1.67:1.67という比率で制限し、新しい主力艦の建造を10年間停止することを定めたものである。同時に、太平洋の一部海域では要塞化の凍結も取り決められ、日本は南洋の島嶼を守るための要塞化に制限を受けた。この「3」の比率は日本国内で国辱と批判されつつも、財政負担の軽減を評価する声もあり、海軍内部で対立を生んだ。

四カ国条約

ワシントン会議では、太平洋地域の現状維持に関する四カ国条約も締結された。これはアメリカ、イギリス、日本、フランスが相互に太平洋の属領と権益を尊重し、紛争が生じた場合には共同で協議して平和的に解決することを約した条約である。四カ国条約によって、従来の二国間同盟であった日英同盟は終了し、多国間協調にもとづく安全保障の枠組みへと転換した。この点で、四カ国条約は「太平洋版集団安全保障」の性格を持つと評価される。

九カ国条約

ワシントン会議のもう一つの柱が、極東とくに中国問題に関する九カ国条約である。アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国の9カ国は、中国の主権・独立・領土保全を尊重し、門戸開放と機会均等の原則を確認した。これは従来アメリカが主張してきた対中「門戸開放」政策を、多国間条約の形で国際的に承認した点に意義がある。ただし、列強による既存の権益や治外法権はただちに廃止されず、不平等条約体制そのものを解体するには至らなかった。

その他の決定と局地的問題の処理

ワシントン会議では、主力艦以外の艦艇や潜水艦、化学兵器の使用をめぐる制限も協議された。また、第一次大戦中に日本が継承した山東半島の旧ドイツ権益については、中国への返還が原則として確認され、具体的な移譲条件は日中間の協定に委ねられた。これにより、パリ講和会議以来、中国の民族運動を刺激してきた山東問題は、一定の妥協を通じて収束へと向かった。

日本とワシントン体制

ワシントン会議を通じて形成された国際秩序は、しばしば国際連盟の枠組みとあわせて「ワシントン体制」と呼ばれる。日本は海軍軍縮と引き換えに、列強と対等に近い立場で太平洋の現状維持を認められ、協調外交路線を強めた。その一方で、保有量比率に不満をもつ艦隊派と、国際協調を重視する条約派との対立が海軍内部で深まり、のちのロンドン海軍軍縮会議をめぐる政治危機の伏線となった。また、軍縮により国防費が抑制されたことは、戦後財政の安定という点で一定の効果をもった。

ワシントン体制の限界とその後

ワシントン会議にもとづく体制には、当初から限界も存在した。陸軍や航空戦力には実効的な制限が加えられず、ソビエト=ロシアやドイツといった重要な主体は会議の外に置かれたままであった。さらに、植民地支配や民族自決をめぐる問題は先送りされ、アジア・太平洋の反植民地運動の不満は解消されなかった。世界恐慌とファシズムの台頭の中で、列強は再軍備へと傾き、ロンドン海軍軍縮会議の破綻や太平洋戦争の勃発とともに、ワシントン会議が築いた軍縮と協調の枠組みは最終的に崩壊することになった。

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