ヒジャーズ王国
ヒジャーズ王国は、第一次世界大戦期の1916年にアラブ反乱を主導したメッカ総督フセイン・イブン・アリーが樹立したアラブ君主国家であり、紅海東岸のヒジャーズ地方を支配した王国である。メッカとメディナというイスラームの二大聖都を擁し、宗教的権威を背景にアラブ独立国家の中心となることを構想した点に大きな特徴がある。従来この地域を支配していたオスマン帝国の動揺と、イギリスの対独戦略が重なったことで誕生したが、1920年代半ばにはナジュドの勢力に圧迫され、最終的にサウジアラビアに併合されて消滅した。
ヒジャーズ地方とオスマン帝国支配の背景
ヒジャーズ地方はアラビア半島西岸に位置し、巡礼路と紅海交易をおさえる戦略的地域であった。16世紀以降、この地域は形式上オスマン帝国の一州として組み込まれたが、メッカ総督(シャリーフ)として知られるハーシム家の首長が、宗教的権威と地方自治を保ちながら支配を担っていた。19世紀末から20世紀初頭にかけて帝国の中央集権化が進むと、イスタンブル政府はヒジャーズ鉄道の建設などを通じて直接支配を強め、地方エリートとの緊張が高まっていった。
アラブ民族主義とアラブ反乱
20世紀初頭、シリアやイラクを中心にアラブ民族主義が台頭し、帝国内のアラブ知識人は自治拡大や独立を要求するようになった。第一次世界大戦が勃発すると、イギリスは対独・対オスマン戦略の一環としてアラブ勢力との提携を模索し、フセインと高等弁務官マクマホンとの間でフセインマクマホン協定が交わされた。この往復書簡でイギリスは、戦後に広範なアラブ独立国家の樹立を約束すると解釈される表現を用い、フセイン側はこれを根拠に1916年のアラブ反乱を起こしたのである。
ヒジャーズ王国の成立と統治
1916年、フセインはメッカで自らの王位を宣言し、ヒジャーズ王国の成立を公表した。王国はメッカ、メディナ、ジッダなどの都市を中心に支配を確立し、イスラーム世界における「二聖都の守護者」としての正統性を強調した。戦時期にはイギリスの軍事・財政支援を受けつつ、フセインの息子たちがシリアやイラク方面で軍事行動を展開し、そこにはロレンスとして知られるイギリス将校も関与した。
戦後処理と列強間の思惑
しかし、イギリスは一方でフランスと中東分割を取り決めたサイクスピコ協定を結んでおり、フセインの構想した統一アラブ王国は実現しなかった。戦後の国際会議や委任統治制度の導入により、シリアやイラク、パレスチナなどは列強の影響下に置かれ、ヒジャーズ王国は紅海沿岸の一王国として限定的な地位にとどまった。列強は巡礼路の安定や紅海航路の安全確保を重視しつつも、フセイン王国の拡張には慎重であった。
ナジュド勢力との対立とサウジ併合
戦後、中部アラビアのナジュド地方では、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードがワッハーブ派を背景に勢力を拡大していた。彼の支配するナジュド王国は、宗教的保守主義と部族軍事力を武器に周辺を制圧し、やがてヒジャーズへの進出を開始した。フセインはヨーロッパ列強の対トルコ政策を批判するなど保守的外交をとったため支持を失い、1924年から25年にかけてナジュド軍の攻勢に抗しきれず、ヒジャーズ王国は崩壊した。その後、ヒジャーズとナジュドは統合され、1932年にサウジアラビア王国が成立したのである。
ヒジャーズ王国の歴史的意義
ヒジャーズ王国は存続期間こそ短かったが、アラブ民族主義の高まりと第一次世界大戦期の再編成のなかで生まれた「アラブ独立国家」の先駆的事例であった。メッカとメディナを支配した経験は、のちにヨルダン王国を築くハーシム家の権威を支える基盤ともなり、一方でイブン・サウードの勝利は、半島全体を統合するサウジアラビア王国の形成につながった。こうしてヒジャーズをめぐる争奪は、アラビア半島における近代国家形成と、イスラームの聖地をめぐる政治秩序の再編を象徴する出来事として位置づけられる。また、中東再編における列強の秘密外交は第一次世界大戦後の国際秩序への不信を深めた点で、現代中東政治の起点としても重要である。
コメント(β版)