イエニチェリの全廃|オスマン近代化の転機

イエニチェリの全廃

イエニチェリの全廃とは、1826年にマフムト2世が決行した、オスマン軍の中核をなしてきた近衛歩兵軍団イエニチェリの武力解体と制度的廃止を指す出来事である。長年にわたり特権化し、改革に反対してきたイエニチェリを排除することで、スルタン権力は再び強化され、近代的常備軍へと転換する道が開かれた。この事件は「善き出来事」とも呼ばれ、19世紀のオスマン帝国の改革を推し進める転換点となった。

イエニチェリの起源と役割

イエニチェリは14世紀末に創設されたオスマン帝国の常備歩兵であり、主としてキリスト教徒の少年を徴用してイスラーム教に改宗させ、厳格な訓練をほどこして編成された。彼らはスルタンの親衛軍として、帝国の膨張期には対外戦争で大きな戦果をあげたが、やがて世襲化や都市民との結合が進み、軍事集団であると同時に都市の有力ギルドとも結びつく特権身分となった。その結果、彼らは新兵器の導入や編制の近代化に強く抵抗し、しばしば反乱や宮廷クーデタを通じてスルタンの政策を左右する存在になった。

近代軍制改革への抵抗

18世紀末になると、ロシアやオーストリアとの戦争での敗北を通じてオスマン軍の旧式化が明白となり、スルタンセリム3世は近代的軍隊ニザーム=ジェディットの創設を試みた。新兵の訓練や装備は西欧式を手本とし、財政面でも独自の基金を整えたが、この新制度は既得権を脅かすものとしてイエニチェリの激しい反発を招いた。地方の有力者アーヤーンもまた中央集権化を警戒し、1807年にはイエニチェリの蜂起によってセリム3世は退位・殺害され、軍制改革は挫折した。

マフムト2世による復権と準備

その混乱の中で即位したマフムト2世は、当初イエニチェリの力を利用しつつも、最終的には彼らを排除しなければ帝国の再建は不可能と悟った。彼は官僚機構の整備や服制の改革などを通じて宮廷と官僚の結束を固め、慎重に新式軍の基盤づくりを進めていった。また、宗教権威層からイエニチェリの反乱を「不法」とするファトワーを得ることで、後に武力行動に踏み切るための思想的正当化も整えた。このようにイエニチェリの全廃は突発的事件ではなく、長期的な政治・軍事改革の帰結であった。

1826年「善き出来事」の経過

1826年、マフムト2世は新式訓練を受けた部隊の増強を命じたが、これに反発したイエニチェリはイスタンブルで蜂起し、伝統的な焼き討ちや騒擾を行った。スルタンはただちに反乱を違法と宣言し、忠誠を誓う砲兵部隊と住民を動員してイエニチェリ兵営を砲撃させ、多数の兵を殺傷・制圧した。生き残った者の多くは処刑や追放に処され、軍団組織そのものも廃止され、関連する財産や基金は没収された。この一連の事件は、帝国側の宣伝において「善き出来事」と呼ばれ、旧軍団の排除を帝国再生への「吉兆」として描き出したのである。

イエニチェリ廃止後の軍制と帝国

イエニチェリの全廃後、マフムト2世は「預言者の勝利ある軍隊」と称される新たな常備軍を創設し、その編制や訓練は西欧諸国を範として整えられた。こうした軍制改革は、のちのオスマン帝国の改革やタンジマートへとつながり、軍事のみならず行政・司法・教育など広範な分野の近代化を促した。一方で、強化された中央軍は地方勢力を抑えこむ手段ともなり、エジプトやバルカン諸地域との関係再編を進めたが、その過程で19世紀のエジプト問題や、のちのエジプトの保護国化、さらにはウラービー運動など新たな対立も生み出した。イエニチェリの廃止は、旧来の軍事身分制が終焉し、近代国家へと転換していくオスマン帝国の大きな節目として位置づけられる。

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