プルードン|相互主義を唱えた無政府主義思想家

プルードン

ピエール=ジョゼフ・プルードンは、19世紀フランスを代表する社会主義思想家であり、近代無政府主義の先駆者とされる人物である。「財産とは盗みである」という挑発的な命題で知られ、資本主義社会における私有財産制を批判しつつ、小生産者や職人の自律にもとづく社会を構想した。彼の思想は、国家による統制を重視するマルクス主義と対照的であり、ヨーロッパの社会主義思想のなかで独自の系譜を形づくっている。

生涯

プルードンは1809年、フランス東部のブザンソン近郊に生まれた。裕福ではない家に育ち、若くして印刷工として働きながら独学で学問を身につけた。この現場経験は、職人や小生産者の立場から社会を観察する視点を彼に与え、のちの思想形成に大きな影響を与えた。19世紀前半は、フランス革命後の政治的不安定と産業革命の進行が重なり、貧困や格差が拡大した時代であり、プルードンはその現実に対する批判的問題意識を強めていった。

1840年に刊行された『財産とは何か』によってプルードンは一躍有名になり、1848年の二月革命ののちには国民議会議員にも選出された。同時に彼は新聞「人民の声」を通じて政府や銀行を批判し、これにより投獄も経験した。晩年は健康を損ねつつも執筆を続け、1865年に没するまで、社会主義と無政府主義の中間に位置する独自の思想を展開し続けた。

所有論と「財産とは盗みである」

プルードンの名を最も有名にしたのが、「財産とは盗みである」という急進的な言葉である。ここで彼が批判した「財産」とは、土地や資本を所有することによって他人の労働から利潤や地代を取り上げる権利を指す。一方、農民や職人が自らの労働手段として保持する「占有」は、社会的に正当なものとして認められるべきだと考えた。この区別により、彼は一律に私有を否定するのではなく、不労所得を生み出す支配的な所有形態を問題視したのである。

こうした所有批判は、産業資本主義の進展にともなう都市貧民や労働者の困窮を背景にしている。サン=シモンフーリエなどの空想的社会主義者が調和的共同体を構想したのに対し、プルードンは法制度と経済構造の具体的な変革を通じて、より公正な所有関係を実現しようとした点に特徴がある。

相互主義と経済思想

プルードンの経済思想の中心には「相互主義」と呼ばれる構想がある。これは、小生産者や職人、農民が自由な契約にもとづき相互に協力し合い、等価な労働と商品の交換を通じて市場を組み立てるという考え方である。彼は利子や地代などの搾取的な所得を廃し、労働にもとづく公正な交換が実現すれば、国家による強制や特権的な資本家階級に頼らずとも秩序ある社会が成立すると主張した。

その具体案としてプルードンは「人民銀行」の設立を唱え、低利または無利子の信用供与によって、小規模な生産者が自立しやすい条件を整えようとした。こうした構想は、のちのロバート=オーウェンらに代表される協同組合運動や、草の根の労働運動に一定の影響を与えたとされる。

政治思想と無政府主義

政治思想の領域においてプルードンは、国家権力に対して強い不信を表明した。彼は、中央集権国家も権威主義的な社会主義政権も、いずれも人々の自発的結合を抑圧するとみなした。その代わりに、自治的なコミューンや職能団体が水平的に連合する「連邦主義」を唱え、政治権力を細分化し相互牽制させることで自由を守ろうとしたのである。

このような構想は、暴力的革命よりも漸進的な制度改革と社会的実験を重視し、権力を集中させない方向で社会を変革しようとする点に特色がある。のちにマルクスと対立した無政府主義の潮流は、多くの点でプルードンの連邦主義と相互主義を継承したといえる。

マルクスとの関係と評価

プルードンは若い時期のマルクスと交流を持ち、当初は互いに評価し合っていたが、やがて理論や戦略の相違から鋭く対立するようになった。プルードンが「貧困の哲学」を著して自己の立場を展開すると、マルクスは『哲学の貧困』をもって彼を批判し、階級闘争と革命政権の必要性を強調した。マルクスから見れば、プルードンの相互主義は小市民的な妥協であり、資本主義の根本的克服には不十分だと映ったのである。

それでもなおプルードンは、国家権力に依存しない社会変革の構想、所有と占有の区別、自治と連邦主義の理念を通じて、ヨーロッパの社会主義および無政府主義の思想史に独自の位置を占めている。彼の理論は、サン=シモンフーリエなどの空想的社会主義と、マルクス主義的な科学的社会主義とのあいだをつなぐ重要な環節であり、19世紀以降の多様な社会運動や思想潮流を理解するうえで欠かすことのできない存在である。