炭焼党
炭焼党は、19世紀前半のイタリアで活動した秘密結社であり、専制的支配に対する抵抗運動とイタリアの政治的自立をめざす運動の中心の一つである。名前は「炭焼き」を意味する言葉に由来し、山中で炭を焼く職人の仲間意識や隠密性になぞらえた組織原理を持っていた。ナポレオン支配とその崩壊後に成立したウィーン体制のもとで、旧来の王政復古と検閲に反対する自由主義・ナショナリズムの担い手として重要な役割を果たした。
成立と歴史的背景
炭焼党の起源は、ナポレオン時代のイタリア諸国にさかのぼるとされる。フランス革命とナポレオンの改革は、封建的特権の打破や法の前の平等など近代的原理をもたらしたが、1814年から1815年のウィーン会議によって旧王家が復活し、絶対主義的秩序が再建された。この体制を国際的に支えたのが神聖同盟や四国同盟・五国同盟であり、イタリアでも検閲や警察統制が強化された。こうした状況のもとで、自由主義的改革と民族的自立をめざす知識人・軍人・都市中産層が秘密結社として結束し、その代表的存在が炭焼党であった。
組織構造と儀礼
炭焼党は、会員が少人数の支部(「炉」や「販売所」と呼ばれる)に分かれ、互いの身元を厳重に秘匿する細胞組織を特徴としていた。入会には象徴的な儀礼が伴い、炭焼き小屋や炉を模した場で誓約をおこなうなど、日常の炭焼き作業を政治的象徴に読み替える工夫がみられた。指導者層と一般会員のあいだには等級が設けられ、命令系統は上意下達であったが、地方支部は比較的自立的に活動し、地域の不満や政治情勢に応じた運動を展開した。このような秘密結社の形式は、ドイツのブルシェンシャフトやドイツ学生同盟など、同時期のヨーロッパ各地の結社運動とも共通点を持つ。
政治目標と思想的性格
炭焼党の目標は、地域や指導者によって幅があったが、おおむね立憲政治の導入と市民的自由の保障を求める自由主義的要求と、オーストリアや旧王家の支配からのイタリア解放をめざす民族運動的要求から成り立っていた。初期には単に憲法と議会の承認を君主に迫ることに重点が置かれ、イタリアの完全な統一という構想は必ずしも明確ではなかったが、運動の過程で次第にイタリア諸邦の連帯意識が高まり、のちのイタリア統一運動へと連続する思想的土壌を形成した。その意味で炭焼党は、近代的な国民国家形成に先立つ段階のナショナルな結社運動として理解される。
1820~1821年の蜂起と弾圧
ナポリとシチリアの革命
1820年、スペインの立憲革命の成功に刺激を受けた炭焼党の士官たちは、ナポリ軍の一部を動かして蜂起し、ブルボン朝王に憲法制定を迫った。これにより南イタリアでは立憲制が一時的に実現したが、保守勢力を代表するメッテルニヒの主導のもと、オーストリア軍が介入し、革命政権は短期間で崩壊した。その後、指導者たちは処刑・投獄・亡命を余儀なくされ、組織は地下に潜行した。
ピエモンテの蜂起
1821年には北イタリアのピエモンテでも炭焼党に結びついた軍人と自由主義貴族が蜂起し、立憲制を要求した。しかしここでもオーストリア軍の介入と国内保守派の反撃により運動は失敗し、多くの参加者が国外に逃れた。これらの挫折はウィーン体制下の反体制運動が直面した国際的抑圧の強さを示すとともに、亡命先での政治的ネットワーク形成を通じて、ヨーロッパ規模の自由主義・ナショナリズム運動を育てる契機ともなった。
ヨーロッパへの波及と後継運動
炭焼党の運動様式や象徴は、フランスの「シャルボネリー」など類似の秘密結社を通じて西ヨーロッパにも広がり、七月王政前夜の反王政運動に影響を与えた。また、イタリアにおいては、若きマッツィーニが一時炭焼党に参加したのち、その限界を批判して青年イタリアを組織し、より明確な共和主義と全国的統一を掲げた運動へと発展させた。こうして炭焼党は、のちのイタリア・リソルジメントの先駆的段階として位置づけられ、専制体制と闘った秘密結社として歴史に記憶されている。
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