オランダ(フランスによる支配)|ナポレオン期の従属と変容

オランダ(フランスによる支配)

18世紀末から19世紀初頭にかけてのオランダは、フランス革命とナポレオン戦争の波に巻き込まれ、共和政期の伝統を失いながらフランスの衛星国家・併合領として再編された。旧オランダ連邦共和国は1795年に崩壊し、フランス軍の占領のもとでバタヴィア共和国が樹立され、さらにナポレオンの弟を国王とするホラント王国、そしてフランス帝国への直接併合へと段階的に組み込まれていく。この過程でオランダ(フランスによる支配)は、政治・行政・法制度の近代化と引き換えに、海運・貿易国家としての繁栄を大きく損なうことになった。

フランス革命戦争とオランダ共和国の崩壊

18世紀のオランダ連邦共和国は、アムステルダムを中心とする金融・海運の強国でありながら、政治的には有力都市と州が緩やかに結びついた分権的な共和国であった。しかし、国内では改革を求める「愛国派」と保守的な総督派が対立し、そこにフランス革命戦争が重なった。1795年、フランス革命軍がライン川方面から侵入すると、総督オラニエ家はイギリスへ亡命し、フランスの保護下で共和政を掲げるバタヴィア共和国が成立した。これにより旧来の連邦共和政は終焉し、オランダはフランスの同盟国・衛星国家として戦争・経済政策に組み込まれることとなる。

バタヴィア共和国とフランス型改革

バタヴィア共和国は、名目上は独立した共和国であったが、実際にはフランス軍の駐留と財政支配のもとに置かれた。共和政政府は、旧来の州ごとの自治と都市特権を整理し、中央集権的な行政府や統一的な議会制度を導入しようとした。これはフランス革命の理念に基づく近代国家化の試みであり、後のオランダ王国の行政制度の基礎となる。一方で、フランスへの軍事援助や賠償金、対イギリス戦争への協力は財政を圧迫し、オランダ商船隊はイギリス海軍の制海権とトラファルガーの海戦に象徴される海戦の結果、大きく衰退した。

ホラント王国の成立とルイ・ボナパルト

ナポレオンが皇帝に即位し第一帝政を開くと、彼は衛星共和国の統制を強めるため、1806年にオランダをホラント王国として再編した。国王には弟のルイ・ボナパルトが就き、形式上は独立王国として扱われた。ルイはオランダ語を学び、洪水被害や貧民救済に努めるなどオランダ人として振る舞おうとし、しばしば兄ナポレオン1世の要求と対立した。とりわけ、大陸封鎖令にともなう密貿易黙認や徴兵・税負担の軽減は、ホラント王国が住民の利害を代弁しようとした例として知られる。しかしナポレオンはこれを不満とし、王国がフランスの戦略に十分従わないと判断すると、1810年にルイを退位させ、オランダをフランス帝国に直接併合した。

フランス帝国への併合と行政・法制度

1810年以降、オランダはフランス帝国の県(デパルトマン)として編入され、パリから派遣された官僚が行政を掌握した。裁判制度や行政区画はフランス式に統一され、近代市民法典であるナポレオン法典が導入される。これにより、身分や都市特権に依存した旧来の慣習法は整理され、契約・所有権・家族法などの分野で近代的な法体系が整った。フランス帝国の支配は、オランダをヨーロッパ大陸全体の再編の一部として扱い、ドイツ西部におけるライン同盟や神聖ローマ帝国の消滅、そしてオーストリア帝国の成立と同様、大陸諸国の政治地図を書き換える過程に位置づけられる。

経済・社会への影響

大陸封鎖と通商の衰退

  • イギリスとの通商禁止を目指した大陸封鎖令は、伝統的にイギリスとの交易に依存していたオランダ経済に深刻な影響を与えた。
  • アムステルダムやロッテルダムの港湾は、海上保険・再輸出貿易などで栄えていたが、戦争と封鎖により港湾活動が停滞し、失業や商家の倒産が増加した。
  • 一方で、密貿易や中立国を通じた迂回貿易も広まり、フランス当局との駆け引きが地域社会の日常に入り込むことになった。

徴兵・重税と民衆の負担

フランス帝国への併合は、徴兵制と重税を通じてオランダ社会に直接的な負担を課した。若い男性は帝国軍として各地の戦線に動員され、三帝会戦やイエナの戦いなど、ナポレオンの諸戦役に参加させられた。また、塩税や物品税の増加は庶民の生活を圧迫し、フランス兵の駐屯とあわせて支配者への反感を高めた。こうした経験は、後にオランダ人のあいだに「自国の王」と「自国の国家」を求めるナショナリズムを育てる重要な背景となった。

支配の終焉とオランダ王国の成立

1812年のロシア遠征失敗を契機にナポレオン戦争の戦局が逆転すると、フランス帝国の統制は急速に揺らいだ。1813年にはプロイセンやロシアなどの連合軍がオランダに接近し、国内でもフランス支配に対する蜂起が発生する。オラニエ家のウィレムは帰国して暫定政府を樹立し、1814年にオランダ王国が成立、ウィレム1世として即位した。その後、ウィーン会議と1815年の再編により、旧オーストリア領ネーデルラントを含む「ネーデルラント連合王国」が形成され、ナポレオン没落後のヨーロッパ秩序に組み込まれていく。こうした再編は第3回対仏大同盟以降の対仏戦争の帰結であり、フランス支配下で導入された行政・法制度は、支配の記憶とともに19世紀オランダ国家の枠組みとして残り続けた。