ジロンド派の追放
ジロンド派の追放とは、1793年5月31日から6月2日にかけて、国民公会から穏健共和派であるジロンド派の議員が一斉に排除された事件である。これはフランス革命期の権力が、穏健なブルジョワ共和主義から急進的な山岳派・ジャコバン派へと移行する転換点であり、その後の恐怖政治や内戦、対外戦争の激化につながる重大な出来事であった。
ジロンド派と山岳派の対立
国民公会では、地方ブルジョワを基盤とし、分権的な共和政を志向するジロンド派と、パリの小市民やサン=キュロットを基盤とし、強力な中央集権と急進改革を主張する山岳派が激しく対立していた。ジロンド派は、第一共和政成立後も法の支配と財産権を重視する立場から、民衆運動の暴走に警戒的であり、パリ市民やマラーら急進派をしばしば批判した。一方、山岳派は、戦争や経済危機に対応するためには、例外的な非常権力と民衆の圧力が不可欠であると訴えた。
戦争・経済危機とジロンド派の弱体化
1792年以降、革命フランスはオーストリアやプロイセンとの戦争に突入し、その後、対仏大同盟(第1回)の結成によって全面戦争の様相を強めた。戦局はしばしば不利に傾き、加えて食糧不足やインフレが都市民衆の生活を圧迫した。こうしたなかで、戦争政策を主導してきたジロンド派は「敗北の責任」を問われ、物価統制や富裕層への課税に消極的であったことから、サン=キュロットの不満を一身に集めた。その一方で、ロベスピエールら山岳派は民衆の要求に寄り添う姿勢を示し、パリ政治における発言力を増大させていった。
パリ・コミューンとサン=キュロットの圧力
フランス革命の中心であるパリでは、区(セクシオン)ごとに組織されたサン=キュロットが、パリ・コミューンと連携して国民公会に圧力を加えた。彼らは、穏健派であるジロンド派こそが革命の徹底を妨げ、戦争と物価高騰の原因であるとみなし、議会からの排除を要求した。こうした動きは、すでに王政廃止やルイ16世の処刑をめぐる対立で蓄積されていた不信感を背景としており、地方基盤のジロンド派はパリ政治において孤立を深めていった。
1793年5月31日〜6月2日の蜂起
1793年5月31日、パリのサン=キュロットは、国民衛兵を動員して国民公会に圧力をかけ、ジロンド派議員の追放を要求した。さらに6月2日には議事堂が武装部隊によって包囲され、議員の出入りが制限されるなかで、山岳派と急進派はジロンド派指導者の逮捕命令を議会に認めさせた。この強制的な措置こそがジロンド派の追放であり、多くのジロンド派議員が自宅軟禁や投獄、のちの裁判と処刑の対象となった。議会内部での討論による多数決ではなく、都市民衆の武力示威によって構成員が入れ替えられた点に、この事件の特異性があった。
ジロンド派指導者の運命と地方反乱
ジロンド派の追放によって、ブリッソーやヴェルニョーなど主要な指導者は逮捕され、一部は地方へ逃亡したが、のちに捕らえられて処刑された。彼らを支持していた地方都市ボルドーやリヨン、マルセイユなどでは、パリと山岳派に対する反発から「連邦主義反乱」と呼ばれる運動が広がり、中央集権的な革命政府への抵抗が示された。同じ頃、農村では王党派と宗教的保守層を主体とするヴァンデーの反乱が勃発し、内戦的様相がいっそう深まった。
恐怖政治と革命政府への移行
ジロンド派の追放によって国民公会の多数を握った山岳派は、公安委員会を中心とする強力な革命政府を樹立し、対外戦争と内乱に対処するための例外的な体制を整備した。これにより、価格統制法や徴兵制の徹底、反革命容疑者の大量逮捕などが進められ、いわゆる恐怖政治が本格化した。ジロンド派が理想とした法に基づく穏健なブルジョワ共和政は、非常時の論理のもとで後景に退き、中央集権的で軍事動員を優先する体制が19世紀に至る近代国家形成の一つの先駆となったと評価される。
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