ラ=ファイエット|米仏革命に尽くす貴族

ラ=ファイエット

ラ=ファイエットは、フランスの貴族出身の軍人・政治家であり、北アメリカのアメリカ独立戦争とフランス革命という、近代史を画する二つの革命に関わったことで知られる。若くして海を渡り、新しく誕生しつつあったアメリカ合衆国の自由と共和政の理念に共感し、自ら義勇兵として戦闘に参加した。帰国後はフランス革命期において人権と立憲君主制を掲げ、民兵組織の指導者として秩序維持にも努めたため、「二つの世界の英雄」と称された。その歩みは、旧体制の恩恵を受けた貴族が、いかにして近代的自由主義の担い手となり得たのかを示す代表例である。

青年期とアメリカ独立戦争への参加

ラファイエットは1757年、中部フランスのオーヴェルニュ地方の名門貴族に生まれた。幼くして父を戦死で失い、多くの財産を継承したが、宮廷政治よりも軍歴と名誉を重んじる性格であった。やがてイギリスと北米植民地の対立が激化すると、彼は植民地側の自由の主張に心を惹かれ、王の制止を振り切って船を買い取り、大西洋を横断した。1777年に上陸した都市は、独立運動の重要拠点であったフィラデルフィアであり、そこで彼は新しい政治思想と出会うことになる。大陸軍に将軍待遇で迎えられたラファイエットは、いくつかの戦闘で勇敢さを示し、若くして名声を得た。

ワシントンとの絆

北米での経験の中でも、総司令官ワシントンとの関係は特に重要であった。ラファイエットは戦場で負傷した際にも前線に踏みとどまり、その忠誠と勇気によってワシントンの信頼を勝ち取った。年長の軍人であったワシントンは、彼を実の息子のように扱い、ラファイエットもまた精神的な父として慕ったと伝えられる。この個人的な絆は、のちにフランスにおいてもアメリカ型の自由と法の支配を理想とする政治姿勢へとつながっていった。

フランス革命と立憲君主制の擁護

ラファイエットはアメリカでの戦功を終えるとフランスに戻り、王政からも一定の好意を受けたが、彼自身は改革志向を捨てなかった。1789年に三部会が招集されると、彼は貴族身分の代表でありながら改革派に属し、国民議会の一員として活動した。彼は人権と自由を保障する新憲法の必要性を訴え、その際にはアメリカ独立宣言や、親交のあったジェファソンらの思想から強い影響を受けたとされる。彼が草案作成に関わった人権宣言は、フランス革命の基本文書として後世に大きな影響を与えた。また、パリ市民軍である国民衛兵の司令官に任じられ、国王と民衆の衝突を抑えつつ、立憲君主制の枠内で自由を確保しようと努めたが、やがて宮廷と急進派の双方から不信を買うようになった。

亡命・拘禁と復帰後の活動

革命が急進化し、王政廃止と共和政樹立が視野に入ると、穏健な立憲君主制を望んでいたラファイエットは、ジャコバン派と深刻に対立した。フランス軍司令官として前線にいた彼は、1792年に国民公会から反革命の嫌疑をかけられ、フランスを離れて亡命を試みるが、オーストリア軍に捕らえられ長期の拘禁生活を送ることになる。その間にフランスでは革命政府とナポレオン時代が次々に到来したが、彼は政治の第一線から退き、釈放後もしばらくは静かな生活を送った。とはいえ、自由主義的な信念を失ったわけではなく、のちに再び議会政治の場に姿を現すことになる。

七月革命と晩年

王政復古期、ラファイエットは議員として自由主義的立場から政府を批判し、絶対王政への回帰に反対した。1830年の七月革命では、再び国民衛兵を率いて運動の中心に立ち、武力衝突の中で秩序維持と新体制樹立の仲介役を務めた。彼は自ら王位に就くことを望まず、市民的な王としてルイ=フィリップを推し立てることで妥協的な政治的解決を図ったが、その後の政権運営には満足せず、あくまで自由と議会制を重んじる立場を貫いた。また、彼はアメリカ独立の記憶を尊重し続け、晩年にはアメリカ合衆国を再訪して歓迎を受けた。1834年に没したが、その葬儀は自由の英雄を悼む多くの人々によって執り行われた。

思想と歴史的意義

ラファイエットの政治思想は、急進的な共和主義ではなく、権力を憲法で制限した立憲君主制と、市民の権利保障を重視する自由主義に位置づけられる。彼は北米で体験した政治文化を通じて市民社会の自律を学び、それをフランス社会に応用しようとした点で、トランスナショナルな思想の仲介者であった。アメリカ側の急進的な民主主義者であるトマス=ペインや、その主著コモン=センスが民衆革命を鼓舞したのに対し、ラファイエットは法と秩序を重視しつつ自由を守ろうとした、中庸的な革命像を体現していたと言える。そのため彼の影響は、フランス国内のみならず、ヨーロッパ各地の自由主義運動においても、「貴族出身のリベラル」というひとつの典型として長く参照され続けた。

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