ペテルブルク
ペテルブルクはバルト海のフィンランド湾に注ぐネヴァ川河口に築かれたロシアの大都市であり、長く帝政ロシアの首都として機能した政治・文化の中心である。1703年にピョートル1世が新たな港湾都市として創建し、西欧世界に向けて開かれた近代的都市を目指した点に大きな特色がある。整然とした街路と石造建築が並ぶこの都市は、モスクワとは異なる「ヨーロッパ的首都」としてロシアの近代化政策を象徴し、のちにペトログラード、レニングラードと名称を変えながらも、ロシア史の主要な舞台であり続けた。
建設の背景と北方戦争
ペテルブルクの建設は、スウェーデンとの北方戦争と密接に結びついている。バルト海沿岸を支配していたスウェーデン王カール12世に対抗し、ロシアは不凍港の確保と欧州貿易への直接参加を目指した。1703年、ネヴァ川河口の湿地帯が要塞化され、そこから都市建設が始まった。戦争終結を定めたニスタットの和約によってロシアはバルト海岸の支配権を獲得し、新首都はロシアがヨーロッパ列強の一員となった象徴として位置づけられたのである。
都市計画と建築の特色
ペテルブルクは、自然発生的に成長したモスクワとは異なり、最初から計画都市として整備された点に特徴がある。ネヴァ川の支流や運河を利用した街区の分割、宮殿・役所・広場を軸にした放射状の街路構成は、西欧の首都を参照したものであった。とくに冬宮をはじめとするバロック・ロココ様式の宮殿群は、ロシア宮廷文化の舞台となり、のちにエルミタージュ美術館として世界的な美術コレクションを蓄積していく。こうした石造建築の集中は、ロシア貴族層を新首都に集住させようとする統治政策とも一体化していた。
- ネヴァ川と運河網を利用した港湾・交通機能
- 宮殿・行政機関・大聖堂を核とする象徴的都市景観
- 貴族邸宅と官庁街が並ぶ「西欧風首都」の演出
帝政ロシアの首都としての役割
ペテルブルクは、18~19世紀の帝政ロシアにおいて、君主権と官僚制が集中する首都として機能した。元老院や学士院が設置され、外交団も集まったことで、ロシアはヨーロッパ国際政治の舞台に本格的に参加するようになる。黒海・バルカン方面への進出をめぐるロシア=トルコ戦争などの対外政策も、この首都から指導され、ロシア帝国は大国としての地位を固めていった。一方で、農村の農奴制と都心の近代的官僚社会との落差は大きく、その矛盾はのちに農奴解放令や革命運動の背景となる社会問題を生み出していった。
革命と戦争の舞台
ペテルブルク(のちのペトログラード)は、20世紀初頭の革命運動において決定的な役割を果たした。1905年の血の日曜日事件や、1917年の二月革命・十月革命はいずれもこの都市を中心に展開し、帝政の崩壊とソヴィエト政権の成立をもたらした。ソ連期にはレニングラードと改称され、第二次世界大戦中には過酷な包囲戦に耐えた都市として記憶される。長期にわたる飢餓と砲撃に耐え抜いた住民の経験は、ロシアにおける戦争記憶の核となり、現在も重要な歴史的象徴であり続けている。
名称の変遷とロシア世界への広がり
ペテルブルクは、ドイツ語風の響きを嫌った第一次世界大戦期にペトログラードと改称され、さらにレーニンを記念してレニングラードと呼ばれるようになった。1991年の住民投票で歴史的名称が復活し、今日では再びサンクト・ペテルブルクの名で知られている。この都市は、帝国時代にはシベリアや極東への探検・植民政策を指導する中心でもあり、アメリカ大陸北部のアラスカや北太平洋探検に従事したベーリングらを送り出した帝都としても位置づけられる。
ヨーロッパ史の中のペテルブルク
ペテルブルクの成立は、ヨーロッパ各地の首都再編や国家形成とも並行して進んだ。オーストリア支配下のベーメンやネーデルラント諸地域、とくに南ネーデルラントなどと同様、この都市も周辺地域を統合する行政・軍事の拠点として機能したのである。バルト海に面した新首都は、西欧思想を受容する窓口としてニーチェやサルトルを含む近代思想の翻訳や紹介を促し、ロシア知識人の議論の舞台ともなった。18世紀の創建から現代に至るまで、サンクト・ペテルブルクは、ロシアの近代化とヨーロッパ国際秩序との接点を体現する都市として、世界史の文脈において重要な位置を占めている。