教皇子午線
教皇子午線とは、15世紀末の大航海時代にローマ教皇アレクサンデル6世が公布した教書にもとづき、スペインとポルトガルのあいだで新たに発見される諸地域の領有権を分割するために設定された想像上の経線である。大西洋上に南北方向に引かれたこの線より西側の未知の土地はスペイン、東側はポルトガルの勢力圏とされ、のちのトルデシリャス条約による修正を経て、アメリカ大陸への到達やインド航路開拓など、ヨーロッパ列強による世界分割の出発点となった概念である。
成立の背景
15世紀後半、ポルトガルはアフリカ西岸の探検と香辛料交易の独占をめざし、リスボンを拠点に航路開拓を進めていた。一方、カスティリャ王国を中心とするスペインは、トスカネリらの地理的構想を背景に、西回り航路による「インディアス」到達を構想し、1492年にコロンブスの航海を支持した。コロンブスがサン=サルバドル島に到達し、西インド諸島がスペイン王権にとっての新たな領有対象として浮上すると、両国のあいだで新発見地の帰属をめぐる対立が激化し、その調停役として教皇の権威にもとづく教皇子午線が構想された。
アレクサンデル6世の教書と最初の教皇子午線
1493年、教皇アレクサンデル6世は教書「Inter caetera」を公布し、大西洋上のアゾレス諸島とカーボヴェルデ諸島の西方約100リーグを通る経線を教皇子午線として画定した。この線より西の「発見されていない」土地はスペインの、東側はポルトガルの布教・征服・植民の権利を持つとされ、非キリスト教世界を教皇の名のもとに二分する構想であった。こうして教皇子午線は、アフリカ航路を開拓してきたポルトガルと、新大陸の支配をめざすスペインとのあいだで、権益の衝突を防ぐための一種の国際的ルールとして機能しはじめた。
トルデシリャス条約と線の修正
しかし、ポルトガル側は最初の教皇子午線が自国に不利であるとみなし、直接交渉による修正を要求した。1494年に締結されたトルデシリャス条約では、線はカーボヴェルデ諸島の西約370リーグへと大きく西方へ移動させられた。この修正によって、のちにブラジルと呼ばれる南米東岸の一帯がポルトガルの勢力圏に含まれる余地が生まれ、植民地分界線としての教皇子午線は、南米におけるポルトガル領ブラジルとスペイン領ラテンアメリカの境界を規定する根拠となった。また、インド航路開拓を成功させたヴァスコ=ダ=ガマの遠征も、こうした条約体制のなかで正当化されていった。
航海技術・地図製作と教皇子午線
教皇子午線の設定は、当時発展しつつあった航海術と地図製作の世界にも影響を与えた。経度の正確な測定が難しかった時代、人々は星座観測や砂時計による推測航法と、カラベル船・カラック船といった外洋航海向きの船を組み合わせて、おおよその位置を割り出していた。強大な政治的意味を持つ教皇子午線を地図上に描き込むことは、スペインやポルトガルの世界観を可視化する作業でもあり、のちの世界地図では、この線を基準に「旧世界」と「新世界」が分節して描かれるようになった。
国際秩序とその後の展開
教皇子午線は当初、カトリック世界内部の取り決めにすぎなかったが、やがて他のヨーロッパ諸国が海外進出を始めると、その正当性は相対化されていく。イングランドやオランダ、フランスなどはローマ教皇の仲裁権そのものを認めず、独自の領有原理にもとづき、北米やアジアに進出した。それでも教皇子午線とトルデシリャス条約体制は、スペインとポルトガルにとっては長く国際秩序の基礎とみなされ、ラテンアメリカ世界の言語・宗教・文化の境界を形づくる歴史的前提となったのである。このように教皇子午線は、一国の外交政策をこえ、世界空間をどのように区切り、誰が支配しうるのかという、近世国際秩序の原理を象徴する概念として重要な位置を占めている。
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