マラーター王国
インド西部デカン高原に成立したマラーター王国は、17世紀後半から18世紀にかけて北インドを支配したムガル政権に対抗し、やがてその弱体化を決定づけた地方勢力である。農民武士集団であるマラーターが台頭し、ヒンドゥー教徒の王としてシヴァージーが独立を宣言することでマラーター王国は誕生し、18世紀にはインド地方勢力の台頭を代表する大勢力へと成長した。
成立の背景
中世南インドの大国ヴィジャヤナガル王国が崩壊したのち、デカン地方には諸スルタン国が林立し、徴税や軍役を担う在地武装勢力が発達した。この地域のマラーター人は、山岳地帯を活かした城砦と騎兵戦に優れ、ムガル帝国の支配が西方に拡大する中で、その軍事力を買われて傭兵や地方支配者として起用された。だが、重い徴税や宗教的緊張は徐々に不満を高め、在地勢力による自立の土壌が形成されていったのである。
シヴァージーの自立と王国樹立
17世紀後半、シヴァージーはマラーター武士団を率い、山城拠点を基盤にゲリラ戦を展開してムガル勢力やデカン諸王国から領域を奪取した。彼はヒンドゥー教伝統を強調しつつも、イスラーム系の行政技術も取り入れ、効率的な徴税制度と城砦網を整備してマラーター王国の基礎を築いた。即位式を通じて神聖な王としての権威を演出し、ヒンドゥー教徒の保護者としてのイメージを打ち出した点は、のちにムガルの皇帝アウラングゼーブと対立する宗教政治的背景とも結びつく。
ムガル帝国との抗争とジズヤ
シヴァージーの拡大はムガル帝国にとって大きな脅威であり、とくに敬虔派皇帝として知られるアウラングゼーブの時期には激しい戦争状態が続いた。アウラングゼーブはヒンドゥー教寺院の破壊や、イスラーム法に基づく人頭税であるジズヤの再課税など、イスラーム色の強い政策を推し進め、その一環としてジズヤの復活が行われた。これに対し、ヒンドゥー教徒の支持を受けるマラーター王国は宗教的対抗軸としても意義をもち、ムガル軍の大規模遠征を引きつけたことで帝国の財政と軍事力を消耗させた。
ペーシュワー政権と拡大
シヴァージー死後、王家内部の争いを調停しつつ実権を握ったのが宰相ペーシュワーである。18世紀にはペーシュワーが実質的な指導者となり、プネーを政治中心としてマラーター王国は同盟と保護関係を通じてインド各地へ勢力を広げた。北インドではムガル宮廷が築いたタージ=マハルや、皇帝シャー=ジャハーンの時代に象徴される華麗な宮廷文化がなお存在したが、政治的実権はマラーターやその他の地方勢力に移りつつあり、ムガル皇帝は名目的君主へと変質していった。
軍事・統治の特徴
- 山岳要塞と機動的騎兵を組み合わせた戦法により、強大なムガル軍に対しても持久戦を展開した。
- 在地有力者からの徴税権を再編し、中央への上納と地方の自立を調整することで支配網を維持した。
- ヒンドゥー教祭礼の保護や寺院への寄進を行い、宗教的正当性を強調した。
パンパットの戦いとイギリスの台頭
18世紀半ば、北インド進出を進めたマラーター王国は、アフガン系勢力と争って第三次パーニーパットの戦いに敗北し、その後の統一指導力を失った。その一方で、沿岸部ではイギリス東インド会社が貿易と軍事介入を強め、マラーター諸勢力との間で複数の戦争が起こる。ムガル宮廷の後援のもとで発展したムガル絵画やラージプート諸侯の宮廷で育まれたラージプート絵画が栄える同時代において、政治の実権は次第にイギリスと地方勢力の抗争へと移行し、やがてイギリス支配の下でマラーター王国も併合されていった。
インド史における意義
マラーター王国は、かつての統一帝国であったムガル支配の枠組みを崩し、地域社会の軍事・財政力に支えられた新たな政治秩序の可能性を示した政権である。その台頭と拡大は、インド近世の宗教政策や地方統治のあり方を大きく変化させるとともに、外来勢力であるイギリス東インド会社の進出条件をも形作った。こうしてマラーター王国は、近世インドの王権構造の転換期を象徴する存在として、ムガル帝国と並びインド近代への橋渡しを担ったと評価される。