タタール
タタールは、ユーラシア草原地帯に広がるテュルク系の集団名であり、歴史的にはモンゴル高原の諸部族名として現れ、西方ではモンゴル帝国の諸民を含む広義の呼称として流布した概念である。中世ヨーロッパでは“Tatar/Tartar”と綴られ、しばしば地獄“Tartarus”との連想から恐怖のイメージと結びつけられた。近世以降はヴォルガ流域やクリミア、シベリアなどに定着した諸集団(カザン・タタール、クリミア・タタール、シベリア・タタールなど)を指す民族名として定着し、現代ロシアではタタルスタン共和国を中心に大規模なディアスポラを形成している。
名称と語源
タタールは、モンゴル高原のタタル部に由来する固有名にさかのぼる。他方、西アジア・欧州における“Tatar/Tartar”は、モンゴル帝国の拡張に伴い外名として普及し、厳密な民族区分よりも征服者・草原民の総称として用いられた。日本や東アジア史料では「韃靼」と表記され、時に北方モンゴル勢力の広義名として使われるため、文脈による意味の揺れが大きい点に留意を要する。
初期史とモンゴル帝国
12世紀の金の覇権下でタタル部は勢力を持ったが、13世紀初頭、チンギス・ハンの統一戦争の過程で征服・編入された。以後、西方世界においてはモンゴル系の軍事的威力がタタールの名声・畏怖と重なり、移動商業・駅伝(ジャムチ)・草原路の安全化を背景に広範な交流が進展した。ここでのタタールは、特定の血統よりも帝国的秩序に組み込まれた草原民の通称として理解されることが多い。
ロシアとキプチャク草原
キプチャク草原ではジョチ・ウルス(いわゆるキプチャク汗国)が成立し、ロシア諸公国は長期にわたりタタール勢力の宗主権の下で貢納と自治を両立させた(「タタールの軛」と総称される)。15〜16世紀にかけてジョチ系の分立政権(カザン、アストラハン、クリミアなど)が派生し、やがてロシア国家の南東進出と並存・抗争の関係をたどった。
地域別の展開
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ヴォルガ・タタール(カザン・タタール):カザンを中心に定住化を強め、職人・商業・学芸に秀でた。
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クリミア・タタール:黒海北岸の交易に関与し、オスマン帝国との結節点として機能した。
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シベリア・タタール:オビ川・エニセイ川流域で多様な局地集団を形成し、狩猟・牧畜・交易を組み合わせた生業を営んだ。
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ノガイ系:キプチャク系の遊動集団として草原の中継と軍事を担い、他集団との通婚・移動を通じて柔軟なネットワークを築いた。
言語と宗教
タタール諸集団の多くはテュルク語族キプチャク語派に属する言語を母語とし、近代にはカザン・タタール語の標準化が進んだ。宗教はイスラーム(多くはスンナ派)が主流で、学塾(メドレセ)を核にウラマーや商人層が地域社会を牽引した。他方、辺境部では前近代の習俗・信仰が併存し、文化的多層性が保持された。
文化・社会
遊牧と半定住の組み合わせは、馬具・皮革・金属工芸、乳製品・穀物を結ぶ交易を促した。都市では市場・隊商宿・モスクが核となり、言語的二重性(自言語とロシア語・ペルシア語・チュルク共通語など)を活用して中継貿易・外交仲介に従事した。料理・音楽・叙事詩は地域差が顕著で、たとえば蜂蜜菓子や細密装飾は移動と接触の歴史を物語る。
近現代の動向
ロシア帝国編入後、イスラーム知識人の改革(ジャディード運動)が教育刷新と民族意識の近代化を推進した。20世紀にはソヴィエト体制下で自治共和国や自治管区の枠が整えられ、言語政策・文字改革を受けつつも民族的自己規定が再編された。クリミア・タタールは戦時期の強制移住と帰還を経験し、現在も権利回復や言語継承が課題である。タタルスタンでは資源・産業と文化復興の両立を模索し、首都カザンは草原と森林帯を結ぶハブ都市として発展している。
用語上の注意
「韃靼」と「タタール」
東アジア史でいう「韃靼」は、明代の北元・オイラト・チャハルなど北方モンゴル勢力を広く指す場合がある。これをそのままタタール(テュルク系民族名)と同一視すると、言語・系譜・政治編制の区別が曖昧になるため、文献の地域・時代・筆者の用法を必ず確認することが重要である。