千戸制|モンゴル十進軍制を支える千戸単位

千戸制

千戸制は、十戸・百戸・千戸・万戸という十進法的な軍事・行政単位を積み上げ、遊牧連合の動員と支配を同時に実現する仕組みである。モンゴル帝国ではチンギス=ハンの下で整備され、家産的首長支配を軍団編制へと置き換える要に機能した。各単位は人数の「千」などを厳密に意味するというより、家畜・被支配人口・従軍可能者を束ねる実務的な枠で、指揮官は戦功と恩顧を基礎に任命された。草原の機動力と分配の規範を背景に、遠征・移住・駐屯・徴税が一体化し、連合首長可汗の権威を末端にまで行き渡らせた点に特徴がある。制度理解には騎馬遊牧民の社会構造や北方民族史の文脈が欠かせない。

成立と背景

千戸制は、部族単位の寄合を越えて全域的な動員をめざした軍制改革として位置づけられる。クリルタイ(評議)で選出された大ハーンの統帥権の下、氏族・随伴集団は十進単位へ再編され、指揮と補給の線が単純化された。獲得地の分与(ウルス)や戦利の再分配とリンクし、忠誠・軍役・課税が同一の枠組みに組み込まれた。制度の実像はペルシア語史料『集史』などに詳しく、法規(ヤサ)や駅逓(jam, ヤム)と連動する総合的統治の中核として描かれる。

単位と指揮系統

  • 十戸(arban)―最小の戦闘・生活単位。相互監督と迅速な伝令に適する。
  • 百戸(jaghun)―十戸を統合する基礎戦術単位。斥候・側面機の運用を担う。
  • 千戸(mingghan)―中核戦力。独立行動・守備・移動駐屯が可能で、指揮官は「千戸長」と呼ばれる。
  • 万戸(tumen)―方面軍規模。複数の千戸を束ね、遠征・占領地支配の主力となる。

この重層構造により、戦時は集合・分散を柔軟に切り替え、平時は牧地・流通・課税の管理を効率化できた。名目上の戸数は情勢で変動しうるが、命令系統と給与(戦利・分配)の経路は一貫して保持された。

財政・課税・軍政の接合

千戸制は軍団管理だけでなく、貢納と市場課税を秩序づけた。遠征線上には駅逓(jam)が敷かれ、軍令・物資・使節の移送が確保された。征服後のルーシではバスカクやダルガチが徴税と監督を担い、のちには諸公に委任される形で朝貢秩序が固定化した(いわゆるタタールのくびき)。同地域を支配したキプチャク=ハン国でも、千戸を基礎とする動員と課税が財政の柱を支えた。

元朝での展開

中国本土では元が「千戸所・百戸所」を置き、軍戸を単位とする守備と屯集を行った。州県・行省の文治機構と並存しつつ、関門・駅逓・塁塞の管理や入貢・市舶の統制に従事した。辺境では騎射・機動戦に強みをもつ編制の利点が生き、補給では牧畜と市易を併用した。防衛・駐屯の系譜は明代の衛所制や北辺防衛の強化(たとえば万里の長城整備)に接続して理解される。

類似制度と継承

女真の猛安・謀克は千・百を基礎とする点で千戸制と機能が近く、遊牧・半農遊牧圏に広がる「十進法的軍政」の代表例である。漢地においては、明の衛所制が軍戸籍・土着防衛を柱に成立し、農政と結合した。兵站面では耕作による供給を制度化した屯田制がしばしば併用され、軍政・田政の二重統治が地域社会に浸透した。こうした収斂は、草原的な動員論理が農耕帝国の行政技術と接合していった過程を示す。

史料と研究の射程

制度の具体像は『集史』や諸ウルス年代記、中国正史類、旅行記、アラビア語史料など多言語の比較で再構成される。研究は、戦術単位としての有効性だけでなく、分配と恩顧、移住と環境適応、征服地統治の均衡など、社会経済史的観点を重視する方向へ拡張してきた。草原世界と農耕帝国の接面をとらえる上で、千戸制は軍事・財政・交通・法の結節点として中核的な分析概念であり、遊牧と定住が交錯するユーラシア史の理解を深める鍵となる。