セルビア王国|中世と近代を結ぶバルカンの王権

セルビア王国

セルビア王国は、大きく二つの時代を指す。第一はネマンヤ朝が教会組織と鉱山経営を基盤に独立性を高め、1217年に王位を獲得してから1346年に帝国へ昇格するまでの中世王国である。第二は19世紀にオスマン支配から自立を進め、1878年に独立承認を得て1882年に王国を宣言した近代国家である。いずれもバルカンの交通要衝を押さえ、ビザンツ・ハンガリー・ヴェネツィア・オスマンといった周辺勢力との角逐の中で、政体・領域・文化の位相を変えながら存続した点に特色がある。

成立と時代区分

中世のセルビア王国は、ステファン・ネマニャの統一と、その子スヴェティ・サヴァが1219年にセルビア正教会の自立を確立したことにより政治・宗教の二本柱を整えた。1217年の戴冠以後、王号の権威は正教会の承認と密接に結びつき、修道院ネットワークが統治と文化の担い手となった。近代の王国は、第一次・第二次セルビア蜂起を経て公国期に行政・軍制を整備し、ベルリン条約(1878年)で独立、オブレノヴィッチ家のもと1882年に王国を宣言した。

ネマンヤ朝の中世セルビア

ネマンヤ朝は山地と渓谷を縫う交易路の結節性を活かし、銀鉱(ノヴォ・ブリドなど)からの収入で王権を強化した。地方にはジュパ(郡)とジュパン(郡長)が置かれ、王は修道院への寄進で宗教権威を高めた。海への接点はラグーサ(ドゥブロヴニク)を介した商業で確保され、ラテン商人・ギリシア人・スラヴ人の交流が都城と鉱山町に多層的な社会を生んだ。

教会と文化

セルビア正教会は修道院建築(ストゥデニツァ、デチャニなど)と写本文化を育み、王権の正統性を視覚化した。聖人伝や奉献碑文は、寄進者としての王の役割を記録し、支配秩序を神聖史の文脈に位置づけた。典礼言語としての教会スラヴ語は、統治文書の整備にも寄与した。

デュシャン帝国と崩壊

ステファン・ドゥシャンは1346年に皇帝号を称し、法典(ドゥシャン法典)で貴族・聖職・都市・農民の関係を規定した。だが1355年の死後、統合は急速に緩み、諸侯の自立と外圧の増大により王権は分裂過程へ入る。帝国化は中央集権強化を志向したが、領域拡大の速度が制度の均質化を上回った点が構造的限界であった。

オスマン支配と抵抗

1389年のコソヴォの戦いは象徴的転機であり、以後セルビア諸政権はオスマンの宗主権下で存続・滅亡・再編を繰り返した。スメデレヴォの陥落(1459年)で中世セルビア王国は終焉し、多くの人口移動が発生した。とはいえ、教会組織はミレット体制下で信仰共同体の維持に努め、文化的連続性を保った。

近代のセルビア王国(1882–1918)

19世紀の公国期に自治が拡大し、1867年にベオグラード要塞からオスマン軍が撤収すると、実質独立は確固となった。1878年の独立承認を経て、1882年にミラン1世が戴冠しセルビア王国が成立した。政体は立憲主義の強弱をめぐり動揺し、オブレノヴィッチ家とカラジョルジェヴィッチ家の王朝交替(1903年の五月政変)を経験したが、国家統合と対外政策の軸は「南スラヴの統一」に置かれた。

バルカン戦争と第一次世界大戦

1912–13年のバルカン戦争で領域を拡張したセルビア王国は、1914年のサラエヴォ事件を契機にオーストリア=ハンガリーと交戦した。度重なる侵攻に抗しつつ、1915–16年のアルバニア撤退とコルフ島再編成、サロニカ戦線での反攻を経て、1918年には戦勝国側に立った。これにより、同年末にセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が成立し、王国は新国家枠組みの中核となった。

政治制度と社会の特徴

  • 中世:ジュパン制と修道院ネットワークが王権の末端浸透を補完し、鉱山都市は国庫の柱となった。
  • 近代:憲法(1888年など)と国会(スクプシティナ)が政治参加を拡大したが、政党政治はしばしば王権・軍部と緊張した。
  • 社会:農民層が人口の大宗を占め、土地制度の改革は国家建設の継続課題であった。

経済と交易の基盤

中世には銀・鉛の採掘と貨幣鋳造が財政を支え、ラグーサ商人やイタリア商人との通商が活況を呈した。近代では農産物、とりわけ養豚・穀物がオーストリア=ハンガリー市場に流れ、関税・鉄道・金融の整備が主権の具体化に直結した。こうした経済基盤は、戦時には動員力と補給力の源泉となった。

歴史意識と記憶

コソヴォの戦いに象徴される記憶は、殉教と選民の物語として文学・聖像・記念日に刻まれ、政治的変転を超えて共同体意識を支えた。中世の栄光と近代の自立は、いずれもセルビア王国という枠組みを通じ、宗教・法・軍事・経済の総体として語り継がれている。