玄奘
玄奘は唐代の仏僧であり、7世紀に長安から西域・インドへ赴き、原典に基づく経典収集と体系的翻訳をおこなった人物である。俗姓は陳、号は三蔵で知られ、629年に出国して各地のオアシス都市を経てインドの学問中心地であるナーランダー寺に入り、戒賢(Śīlabhadra)のもとで唯識学を究めた。帰国後は大規模な翻訳院で膨大な梵本を漢訳し、訳語統一や校勘の厳格化を推進した。旅行記『大唐西域記』は地理・民族・宗教の記述に富み、中央アジアからインド亜大陸に及ぶ広範な地域を描写して東西交流史の一級史料となった。思想面では唯識思想(法相学)を基軸にし、弟子の窺基らとともに後世の法相宗に大きな影響を与えた人物である。
出自と時代背景
玄奘は陳氏の出で、若くして出家した。中国は隋唐交替をへて統一を回復し、長安を中心に国際都市化が進み、ソグド人や各地の僧侶・商人が往来した。経典漢訳は後漢以来累積していたが、伝本の異同や訳語の混乱、註釈の錯綜が課題であった。こうした知的・宗教的需要の高まりが、より正確な原典求取と学統の再建を志す彼の決意を後押ししたのである。
出発と西域横断
629年、玄奘は関所制限を超えて長安を出て西へ向かった。砂漠・山岳を越える過酷な旅路で、吐魯番(高昌)、亀茲、于闐などのオアシスを歴訪し、各地の王侯から保護と支援を受けた。道中でサンスクリット原典や仏舎利を譲られ、学僧との問答を重ね、経典伝承の実態と地域差を直接確認した。西域横断は喉を潤す泉や砂嵐の回避など生死の境を伴い、彼の記述はキャラバン交易や城柵の配置、仏塔・僧院の分布にも触れている。
インド修学とナーランダー寺
玄奘はガンダーラ方面を経てインド本土へ入り、ナーランダー寺に到着した。ここで戒賢に師事し、『瑜伽師地論』を中心とする唯識学・アビダルマ・因明・戒律を修め、学匠との論議に勝利して名声を得た。諸王朝の庇護のもと、多様な宗派と交叉する広大な学術ネットワークに触れ、在地語彙と梵語文献の照合を徹底したことが、後年の訳語整備に直結したのである。
帰国と経典翻訳
645年に凱旋した玄奘は、長安・大慈恩寺の翻訳院を拠点に組織的翻訳を推進した。訳場には筆受・対読・正字・潤文など分業体制が敷かれ、彼は校勘・統率・訳語方針の策定を担った。主な訳出に『成唯識論』『瑜伽師地論』『大般若経』(大部の編纂参加)などがあり、「五種不翻」による固有術語の保持や、音写・意訳の使い分けを精密化した。これにより用語体系が整い、教学と実践の一貫性が高まった。
『大唐西域記』の意義
『大唐西域記』は、インド・中アジアの地理・風俗・王統・仏蹟を記す地誌的著作である。諸国の位置や道里、河川・山脈、都市規模、税制や刑罰、僧院数や部派分布に至る具体的情報は、古典文献と実地踏査の統合成果であった。仏教史研究のみならず、歴史地理学・比較宗教・民族学に資する情報が多く、後代の旅行者や編年史家も参照した。彼の観察は神話化ではなく、可検証的な叙述を旨とし、史料価値が高い。
思想と法相宗
玄奘の思想的核心は唯識であり、心の働きを八識体系として析出し、外界の把握は識の相に依ると説く。とくに『成唯識論』は彼の訳出と校訂のもと、陳那・護法系の学説を整理し、窺基の註釈によって唐以後の法相学の教理基盤となった。戒・定・慧の実修と論理学(因明)の重視、戒律の厳守、訳語統一の姿勢は、学僧の規範を形成した。
唐王朝との関係
唐太宗・高宗は玄奘を重用し、国家的事業として翻訳を後援した。太宗からは歴史記録編纂も命じられ、彼の知見は外交・地理認識の拡充にも寄与した。しばしば官吏・学者との交流が記録され、国家と宗教・学術の協奏がうかがえる。政治的権威の下支えと同時に、彼は仏教界の自律性を保ちながら学術的厳密さを追究した点に特色がある。
東西交流史における位置
玄奘の活動は、交易路に沿う人・物・知の循環を可視化した。彼が携えた梵本・舎利・図像は、宗教実践と書物文化を結び、翻訳は漢字文化圏の知的基盤を刷新した。さらに地誌的記録は、インド仏教の地域差や王権との関係、僧院のネットワーク、戒律運用の多様性を伝え、唐代の国際性と複合世界の接続面を示す。彼は単なる僧の旅人ではなく、知のインフラを再編した編纂者・組織者であった。
年表(抜粋)
- 602頃 陳氏家に生まれる。幼くして出家。
- 629 長安を発ち西域へ出国。
- 630–640年代前半 オアシス諸国を経由しインドへ到達、ナーランダー寺で学ぶ。
- 645 帰国、長安で翻訳事業を本格化。
- 660年代 『成唯識論』など教学の基幹テキストを整備。
- 『大唐西域記』編纂、地誌・宗教・制度の情報を集成。
用語・史料のポイント
- 唯識(法相学)――心の作用(八識)を中心に世界認識を論じる。
- ナーランダー寺――当時最大規模の学僧共同体で、論議と教授法が体系化。
- 翻訳院の分業――筆受・対読・潤文・正字など役割分担による精度管理。
- 五種不翻――音写を原則とする語類の設定により用語の一貫性を確保。
- 『大唐西域記』――地理・民族・仏蹟を含む広域情報の宝庫。
- 窺基(慈恩)――註釈を通じて教理を体系化し、学派の継承を担う。