春秋
春秋は、中国史における東周前期(概ね前770年から前5世紀中葉)を指す時代区分であり、同時に魯の年代記である経書『春秋』の名称でもある。政治的には周王権の衰退を背景に、諸侯が会盟を重ねて覇者を推戴する秩序が形成され、社会・経済面では鉄製農具や牛耕の普及、士層の台頭が進んだ。思想・文化面では礼楽秩序の再編と孔子を中心とする学統が芽生え、後の諸子百家の前提が整った。史料としての『春秋』は簡潔な記載と厳密な語法で知られ、「微言大義」によって道徳的・政治的評価が付与されると理解されてきた。
歴史的背景と東周の成立
周は犬戎の侵入を受け、王都を鎬京から洛邑へ東遷(前770年)した。これにより王権の統制力は低下し、諸侯が実力を蓄えて自立化する局面に入る。封建的な宗法秩序はなお有効であったが、家臣団の強化と在地勢力の伸長が併行し、井田制の実効性は動揺した。こうした構造的変化のなかで、春秋期の政治は王命よりも諸侯間の合意(会盟)と軍事力の均衡に依存する傾向を深めた。
覇者と会盟外交
覇者は、周王室を名目的に尊びつつ(尊王)、諸侯間の秩序を維持し、夷狄の侵攻に対処する盟主である。代表例として、斉の桓公(管仲の補佐)、晋の文公、楚の荘王、秦の穆公が知られる。彼らはしばしば諸侯を召集して条約(盟)を結び、軍役・通交・領土紛争の調停を進めた。会盟は一時的な平衡をもたらすが、同盟の破綻や新興勢力の台頭によって秩序は揺らぎ続け、覇権は固定化しなかった。
政治・軍事の変化
春秋期には、宗族中心の軍制から、卿・大夫が率いる家臣団と士による専門的兵力へと移行が進む。車戦の伝統は残るが、歩兵・弓兵の比重が増し、機動と補給の観念が洗練された。国内政治では、卿・大夫の専横や内紛が深刻化し、公室の弱体化を招く一方、官僚的分掌や法的手続きの整備が進行し、戦国の変法を準備する制度的基盤が整えられていく。
経済と社会の展開
鉄製農具と牛耕の普及は耕地拡大と生産性向上をもたらし、在地市場の発達と手工業の専門化を促した。従来の井田制は名目化し、地縁・血縁に依存していた再分配も次第に通貨的な交換に置き換わる。刀銭・布銭など地域的貨幣の使用が広がり、徴税と兵站の合理化が可能となった。これに呼応して、士の流動性は増し、仕官・外交・軍事で才能を売る人材市場が成立していく。
文化と思想の動向
礼楽秩序の維持・再編は春秋期の根幹である。宗法に基づく身分的秩序は動揺しつつも、礼(儀礼・規範)と楽(音楽・典礼)は政治正統性の象徴として重視された。孔子(前551–前479)は魯を中心に古典の再解釈と教育を通じて人材を養成し、徳治と礼の回復を唱えた。詩歌や史記録の整理も進み、『詩経』や古い史料群が学統の中核を占めるようになる。
史料としての『春秋』
『春秋』は魯の年代記で、前722年から前481年頃までの出来事を簡潔に記す。用字・表現の厳密さから、編者は僅かな語の差で是非・褒貶を示したとされ、「微言大義」と呼ばれた。解釈伝統として「春秋三伝」(『左氏伝』『公羊伝』『穀梁伝』)が成立し、『左氏伝』は物語性豊かな叙述で背景を補い、『公羊伝』『穀梁伝』は経文の句読を糸口とする経学的注解で知られる。後世の経学・政治思想は、しばしばこの評価枠組みを通じて現実政治を論じた。
主要な年表と出来事
- 前770年:周が洛邑に東遷し、東周が始まる。
- 前722–前481年頃:魯の年代記『春秋』の記載範囲。
- 前7世紀前半:斉桓公が覇者となり、管仲とともに会盟秩序を整備。
- 前632年:晋文公が楚を退けて覇権を確立。
- 前597年:楚荘王が勢威を振るい、南方勢力の台頭が顕在化。
- 前546年:晋・楚間の「弭兵」の和約が成立し、諸侯間の均衡が模索される。
- 前506年:呉が柏举で楚を破り、江南勢力の伸長が決定的となる。
- 前473年:越が呉を滅ぼし、春秋末の勢力地図が再編。
- 前453年:晋の三家分晋(趙・魏・韓)が起こり、戦国体制への橋渡しとなる。
用語と後世の区分
「春秋戦国」という並称は、東周の前半(春秋)と後半(戦国)を図式化して理解する枠組みである。実際には社会経済・軍制度の連続性が大きく、分水嶺は段階的であった。とはいえ、会盟と覇者中心の調停機構が相対的安定を保った段階と、法・兵制・領域国家化が加速する段階を分けて捉えることは、有効な分析装置である。
研究史と史料の広がり
伝世文献に加え、金文や考古学的出土が春秋研究を精緻化してきた。諸侯・卿大夫墓からの器物は礼制と外交儀礼を物証で裏づけ、地域差と時間差の分析を可能にする。竹簡・帛書など出土文献は多く戦国期のものだが、編纂由来や史料伝承の層位を逆照射し、春秋末まで遡る政治・思想の連続と断絶を描き出す。こうした知見は、会盟秩序の実態、称号の運用、軍制・租税の変容を再構成し、時代像を更新し続けている。