カウティリヤ|マウリヤ朝の宰相・実利論著者

カウティリヤ

カウティリヤは、前4世紀インドにおける政略家・学者であり、マウリヤ朝の建設者チャンドラグプタの師・宰相として知られる。サンスクリット名ヴィシュヌグプタ、通称チャーナキヤで呼ばれ、国家統治論の大著『アルタシャーストラ(Arthashastra)』の編纂者に比定される人物である。カウティリヤの政治思想は王権の安定と国家利益の最大化を目指す実務主義(ラージャニーティ)に立脚し、財政・行政・軍事・諜報・外交・法制を有機的に統合する体系を提示した点に特色がある。

生涯と歴史的背景

伝承によればカウティリヤは北西インド(タクシラ周辺)に学問的基盤を持つバラモン出身で、ナンダ朝の専横に抗してチャンドラグプタを擁立し、マガダ地方を制圧してマウリヤ朝(前4~前2世紀)成立に寄与したとされる。史料は後代の仏教・ジャイナ教文献や民間伝承に散在し、年代比定には幅があるものの、ナンダ朝の打倒と統一政権の樹立という政治転換に、カウティリヤが重要な役割を果たしたという大筋は広く認められている。

『アルタシャーストラ』の性格

『アルタシャーストラ』は国家運営の「学(シャーストラ)」であり、「アルタ(利)」すなわち富・利益・目的を実現する道を説く総合実務書である。行政機構の設計、土木・測量、租税と専売、刑事司法、軍制、諜報網、対外政策などを専門章に分けて規定する。写本は20世紀初頭に再発見され、学術的校訂が進んだ。その成立は一人の天才の著作というより、前4~前2世紀の実務知の集成・増補とみる説が有力で、名義上のヴィシュヌグプタ=カウティリヤが核となりつつも、後代の層位が重なる複合テクストと理解される。

名称と伝承上の人物像

作者名はヴィシュヌグプタ、異名チャーナキヤ、尊称としてカウティリヤが用いられる。伝承は策略・説得・懐柔を駆使する知略家の像を形づくるが、テクスト自体は学的・規範的な文体を保ち、実証的・数量的指示(度量衡、税率、罰金表など)を多用する。

政治思想の核心

  • 王権の目的は「ダンダ(刑罰・制裁)」の正当行使により秩序を維持し、国富を増進することにある。
  • 人間社会は放置すれば「マツヤニヤーヤ(大魚が小魚を呑む)」に陥るため、強力で有能な統治が不可欠である。
  • 道徳(ダルマ)と利(アルタ)の両立を志向しつつ、危機時には現実主義的判断を優先する。
  • 行政・財政・軍事・諜報・外交を一体化したガバナンス設計により、王の恣意ではなく制度で国家を動かす。

行政と財政

カウティリヤは土地台帳・測量の整備、農地開発、灌漑事業、倉庁管理を軸に、安定的な歳入を設計する。税制は生産物の一定比率(典型的に六分の一)を基本とし、鉱業・塩・森産物・酒類など戦略的資源に国家専売・統制を及ぼす。官僚には厳格な監査を課し、収賄・横領は重罰の対象とするなど、コンプライアンスを制度化する視点が顕著である。

軍事と諜報

軍制は歩・騎・戦車・象の四軍種を基礎とし、要塞化都市と補給線維持を重視する。特にカウティリヤは諜報網の構築に力点を置き、僧形・行商・芸能人など多様な身分を装った密偵を使い、治安・反乱抑止・敵情把握にあたらせる。心理戦(偽情報、離間、懐柔)と経済封鎖を組み合わせ、流血最小で目的を達成することを理想とする。

外交とマンダラ理論

  1. Sandhi(講和)
  2. Vigraha(戦争)
  3. Āsana(中立)
  4. Yāna(進軍)
  5. Saṃśraya(庇護)
  6. Dvaidhibhāva(二重政策)

周辺諸王を「円環(マンダラ)」として相対化し、距離・利害・実力差に応じて上の六策を使い分ける。カウティリヤは固定的な同盟観を退け、時局に応じた再編を合理的に説く。

法と刑罰観

『アルタシャーストラ』は証拠主義と量刑表の整備を提示し、抑止効果と比例性の均衡を図る。自白偏重を戒め、偽証・誣告を罰するなど、訴訟手続の秩序化に意を用いる。家族・奴隷・商取引・相続など私法領域についても細目を規定し、実務に直結する規範を網羅する。

経済観と都市経営

カウティリヤは価格統制、度量衡の標準化、市場監督官の配置を通じて市場の公正を担保しつつ、国家歳入と民間活力の双方を高める設計を試みる。都市は行政・軍事・交易の結節点であり、治水・道路・倉庫・検問所の配置は安全保障と歳入確保の両面から計画される。

受容と比較

近代以降、カウティリヤはしばしば「インドのマキアヴェッリ」と称される。ただし『君主論』が短篇の権力論であるのに対し、『アルタシャーストラ』は制度設計の百科全書的射程を持つ。実利的で冷徹な面と、秩序・福祉のための善政志向とが併存する点に独自性がある。

研究史とテクスト伝承

20世紀初頭の写本発見と出版以降、校訂・翻訳が進み、語彙・法制・経済史の各分野に波及効果を及ぼした。現在は層位論・用語史・比較法制の観点から再評価が続き、カウティリヤ像も伝説的人物から、実務知を集成・編集した学的伝統の象徴へと捉え直されている。

用語解説:マツヤニヤーヤ

弱肉強食の自然状態を指す概念で、統治なき社会の危険を端的に表す。カウティリヤはこれを回避するため、法と制度に裏づけられた強い国家を擁護する。