アートマン|個我とブラフマンの同一を説く教え

アートマン

アートマンとは、インド思想において「自己」「真我」を指す中心概念であり、経験的な心身や可変的な人格を超えて、変化せず独立に存する根源的な自己を意味する。古層のヴェーダ詩に萌芽が見られ、ウパニシャッド期に哲学的に洗練された。なかでも「梵我一如」と呼ばれる、宇宙原理ブラフマンと自己の一致を示す命題は、ヴェーダーンタ学派の基礎をなす。倫理的には輪廻と業の枠組みの中で、無明を破り自己の正しい認識に達することが解脱に通じると説かれる。こうした枠組みは、仏教の無我説やジャイナ教の生命観とも鋭く対置され、古代インドの思想史を通じて議論の核となった。

語源と初出

サンスクリット語のātmanは「呼吸」「生命原理」「自己」を語源的に含意する語である。リグ・ヴェーダには神々や宇宙の内奥にある自己の意をもって現れ、後期のブラーフマナ文献を経て、形而上学的な「真の自己」へと焦点が移る。ここでのアートマンは、単なる心理学的自我ではなく、主体性と意識を支える不滅の基体として捉えられる。

ウパニシャッドにおける展開

ウパニシャッドは内省的探求を通じ、感覚対象に執着する限り自己は苦の輪廻に縛られるが、自己の本性を識知すれば解脱が可能であると論じる。チャンドーギヤでは日常の自己を剝ぎ取り、微細で不可分の実在としてアートマンを示し、ブリハッドアーラニヤカは「これは我なり」という直接知の契機を強調する。多くの対話では、行為や儀礼よりも、存在の中核にある自己の認識が第一とされる。

ブラフマンとの関係

「梵我一如」は、宇宙の根本原理ブラフマンとアートマンの同一性を主張する命題である。これは世界と自己を断絶させず、内奥の自己を通じて宇宙的実在に触れるという視座を与える。認識論的には、現象を覆う無明が差別を生み、名と形の仮構を実在と取り違えるため、師資相承の教説と瞑想によって覆いを取り除くことが肝要とされる。

諸学派の理解

  • 不二一元論ヴェーダーンタは、究極的にはブラフマンとアートマンは同一であるとする。世界の差別は無明に基づく見え。
  • 有資格不二論は、差別を相対的に認めつつ、最高の次元での一致を説く。
  • 二元論は、神と個別我の区別を実在と見なし、永遠の関係性に救済の場を置く。
  • サーンキヤは、純粋意識プルシャを多数的に認め、これがアートマンに近似する。自然原理プラクリティからの弁別智が解脱の鍵となる。
  • ヨーガは、心作用の止滅によって自己本性への安住を目指す実践体系である。
  • ニヤーヤ・ヴァイシェーシカは、恒存する自己実体を論証し、知覚・推論による認識論でそれを支える。
  • ミーマーンサーは儀礼と法を重視しつつ、行為の主体としての自己を肯定する。
  • 仏教は無我を主張し、恒常不変の自己を認めない点で対立する。
  • ジャイナ教は生体原理ジーヴァを認め、業物質の離脱による解脱を説く。

自我・人格との区別

アートマンは、経験的な「私」の感覚や記憶を束ねる心的機能(アハンカーラ)と区別される。後者は変化し、対象に依存し、喜怒哀楽に揺さぶられる。これに対し前者は、変化の背後で「見る者」「証人として在る者」として一貫する。区別がつかないのは無明による混同であり、識別智の成熟が求められる。

救済論と実践

解脱は、自己の本性の直観的認識によってもたらされると説かれる。方法は多岐にわたり、聖典の聴聞・思惟・瞑想、心の統御、慈愛と献身、行為の無私化などが挙げられる。実践の目的は新たな「何か」を獲得することではなく、もともと自由で光明なるアートマンに覆いをかける無明を取り除く点にある。日常倫理においては、非暴力・真実語・自制といった徳が心の清澄を促し、認識を支える。

歴史的影響と比較

アートマン概念は、古代インドの教育・修行共同体における師弟制とともに継承され、中世以降も註解学の展開を通じて多様な読解を生んだ。仏教の無我・空の学説は、人格の固定観念を批判する点で鋭い対話者となり、相互の論争は論理学や認識論の高度化を促した。比較宗教学的には、内在的な自己の神性を強調する諸潮流と、超越者への信頼を強調する潮流が交錯し、宗教体験の多様な位相を照らし出している。

重要用語

  • 真我:覆いのない自己本性。変化せず光明である。
  • 無明:実在を誤認させる根源的無知。差別と執着の原因。
  • 解脱:輪廻からの自由。自己の本性の直観によって実現する。
  • 輪廻:生死流転の過程。業が次生の在り方を規定する。
  • 業:意志的行為とその潜勢力。果熟して経験をもたらす。
  • 梵我一如:ブラフマンとアートマンの一致を述べる命題。
  • プルシャ:サーンキヤにおける純粋意識。観照者。
  • アハンカーラ:自我意識の機能。変化し対象に依存する。
  • 識別智:実在と非実在、恒常と無常を見分ける智慧。
  • 内観瞑想:心作用の静止を通じて自己本性に安住する修練。

現代的意義

現代においても、主体性の根拠をめぐる問いは倫理・宗教・意識研究に接続している。脳科学や現象学が示す自我の生成的性格は、経験的自我とアートマンの区別に照応しうる。宗教間対話の場では、無我と真我という一見相反する語彙が、執着の解体と慈悲・智慧の実現を目指す点で交差することがしばしば指摘され、古典学知の再読が求められている。