グレゴリウス暦
グレゴリウス暦は、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世が公布した太陽暦である。古代ローマ以来のユリウス暦は春分日の後退(季節と暦日のずれ)という累積誤差を抱えていたため、復活祭の日付計算や教会典礼に支障が生じていた。そこで教会会議の勧告を受け、教皇庁は暦法を改訂し、10日分の暦日削除と新たなうるう年規則によって季節との整合を回復した。今日では国際的な民用暦として事実上の標準であり、科学、航海、経済取引、行政実務など広範に用いられている。
導入の背景
ユリウス暦は1年を365.25日(4年に1度のうるう年)とする単純な近似であったが、実際の回帰年(太陽年)365.2422日とのわずかな差が長期で無視できず、16世紀には春分日がニカイア公会議当時より約10日早まっていた。グレゴリウス暦では、1582年10月4日の翌日を10月15日と定めて暦を一気に季節へ引き戻し、あわせて将来の誤差抑制のための精密なうるう年規則を導入した。公布勅書は「Inter gravissimas」と呼ばれ、天文学者クラヴィウスらが計算を主導したとされる。
うるう年の規則と平均年長
- 西暦年が4で割り切れる年はうるう年とする。
- ただし100で割り切れる年は平年とする(例:1700、1800、1900)。
- さらに400で割り切れる年はうるう年とする(例:1600、2000)。
この三段規則により平均年長は365.2425日となり、回帰年との差は約26秒に縮小した。理論上、約3,200年で1日のずれが生じる程度であり、ユリウス暦の約128年で1日のずれに比べ大幅に精度が高い。結果としてグレゴリウス暦は季節指標(春分・夏至など)との整合性を長期的に維持できる。
採用の過程と地域差
1582年にはスペイン、ポルトガル、イタリア諸邦、ポーランド=リトアニアなどのカトリック圏が直ちに採用し、以後プロテスタント諸国が段階的に追随した。イングランドとその植民地は1752年に11日を調整、スウェーデンは18世紀に特異な移行過程をたどって1753年に整理した。東方正教圏では近代までユリウス暦が残り、ロシアは1918年、ギリシアは1923年に民用として移行している。宗教暦ではなお旧来の計算を保持する教会もあり、たとえばコプト教会やアルメニア教会は独自の伝統暦・祭日計算を維持する。
復活祭(イースター)の計算
グレゴリウス暦改革は復活祭の正確な決定を重視し、太陽年の補正に加え、朔望月の位相を近似する「エパクト」の修正を組み込んだ。これにより教会暦の移動祝祭は天文学的実態に近づいたが、ユリウス暦を用いる教会との間で復活祭日が異なる年がある。20世紀以降、統一に向けた提案が繰り返されているが、信仰伝統と実務の折り合いから完全な一致には至っていない。
日本への導入
日本では明治政府が太陰太陽暦(天保暦)を廃し、1873年(明治6年)1月1日から民用としてグレゴリウス暦を採用した。これは租税・俸給・条約実務の国際整合を図る近代化政策の一環であり、和暦(年月日の表記や元号)と西暦の併用という慣行もこの時期に整えられた。以後、行政・教育・産業分野で西暦運用が普及し、現行の生活暦の基盤となっている。
ユリウス暦との比較
ユリウス暦では西暦年が100で割り切れる年もすべてうるう年であるため、1700・1800・1900年がうるう年となる。一方グレゴリウス暦ではこれらは平年で、2000年のみが400の倍数としてうるう年となった。この違いの累積により、20世紀から21世紀の現在、ユリウス暦はグレゴリウス暦より13日遅れており、2100年には14日差となる見込みである。したがって歴史資料の年代照合では、採用地域と暦法を必ず確認する必要がある。
暦法の影響と標準化
グレゴリウス暦の普及は、航海術の発展、長距離商業、郵便・通信の制度化、天文学的観測の国際比較などを支え、近代以降の世界秩序の時間的基盤を形成した。日付と週の体系はISO 8601などの規格と整合し、行政文書や学術引用、証券決済や保険契約などの法務実務においても不可欠である。コンピュータシステムの内部表現やデータ交換でもこの暦法を前提とし、うるう年規則はアルゴリズムとして広く実装されている。
関連項目
本項と関係の深い歴史・宗教・暦法の基礎概念を挙げる。制度史・宗教史・科学史の接点として把握すると理解が深まる。