1932年選挙(ドイツ)|政権不安が急進化を呼ぶ

1932年選挙(ドイツ)

1932年選挙(ドイツ)は、ヴァイマル共和国の政治危機が極限に達した時期に連続して行われた選挙を指し、とくに1932年の大統領選挙と、同年に2回実施された国会(ライヒスターク)選挙が焦点となる。世界恐慌後の失業と社会不安、議会運営の麻痺が重なり、既成政党への不信が拡大する中でナチ党が急伸し、以後の政局を決定づけた。

背景

1930年代初頭のドイツでは、世界恐慌による生産縮小と失業者の増大が続き、生活不安は左右の急進勢力を押し上げた。議会は多数派形成に失敗し、政権は大統領緊急令に依存して統治する傾向を強めたため、議会制民主主義そのものへの信頼が揺らいだ。この状況はヴァイマル共和国の制度疲労として意識され、選挙は「政権を支える多数派」の争奪ではなく「体制の存続」をめぐる対立へ転化していく。

大統領選挙

1932年の大統領選挙では、現職ヒンデンブルクが再選を目指し、対立候補としてヒトラーらが前面に立った。大統領職は軍・官僚機構と結びつきが強く、緊急令の発動を通じて政治の帰趨を左右できる地位である。選挙戦は大衆動員と宣伝の競争となり、ナチズムが「国民共同体」や秩序回復を強調して支持を広げる契機ともなった。

国会選挙と2度の投票

1932年には国会選挙が2回行われた。政権の基盤が脆弱で、解散と総選挙が繰り返されたためである。選挙は比例代表制を基礎としており、得票の変化が議席に反映されやすく、急進勢力の伸長が一気に可視化された。

1932年7月の国会選挙

7月選挙ではナチスが最大党へ躍進し、議会内での発言力を飛躍的に高めた。だが最大党になっても安定多数を単独で確保できるわけではなく、連立の組み合わせはさらに困難になった。議会は対立が先鋭化し、政治は「妥協による統治」よりも「対決による動員」へ傾いていく。

1932年11月の国会選挙

11月選挙では、ナチ党が議席を減らす一方で、政治の分裂状況自体は改善しなかった。支持の揺れは、失業不安の長期化や党内外の緊張も反映していたが、議会に安定政権を生む力が戻ったわけではない。結果として、政権形成は選挙結果よりも、保守派の思惑と大統領周辺の判断に強く左右される構図が固定化した。

選挙がもたらした政治過程

1932年の一連の選挙は、議会政治を立て直すよりも、むしろ議会の機能不全を反復的に示した点に特徴がある。最大党となったナチ党は、街頭動員と宣伝を背景に既成政治を圧迫し、他方で保守派は「取り込みによる統制」を構想していく。過激な排外・暴力的傾向も政治言語として常態化し、ユダヤ人排斥のような排除の論理が公共空間に浸透する素地が強まった。

関連する動員と思想

ナチ党の台頭は突発的な出来事ではなく、ミュンヘン一揆以後の路線転換、大衆政党化、宣伝技術の発達と結びついている。理念面では我が闘争に示された国家観や人種観が党の自己像を支え、経済危機下の不満を「敵の設定」と「救済の約束」へ束ねた。こうした過程は、後年の絶滅政策へ連なる危険な回路を、選挙政治の内部で準備していったと位置づけられる。