1791年憲法
フランス革命期に制定された1791年憲法は、絶対王政を終わらせ、国民主権と権力分立に立脚した立憲君主制を定めたフランス初の成文憲法である。旧体制の解体とともに進んだフランス革命の政治的成果を法典としてまとめたものであり、国王の権限を厳しく制限しつつ、財産を有する「能動市民」に政治参加を認める体制を規定した。
制定の歴史的背景
1789年に三部会から国民議会が成立し、封建的身分制の解体と封建的特権の廃止が進むなかで、新しい国家原理を示す憲法の制定が課題となった。1789年8月の人権宣言は自由・平等・国民主権の原則を掲げ、その具体的制度化として1791年憲法の起草が開始された。宮廷の動揺と改革への抵抗は強く、ルイ16世やマリ=アントワネットらは改革を嫌い、立憲体制は当初から不安定な条件の下で準備された。
国家原理と立憲君主制
1791年憲法は、主権は国民に存するという国民主権を明記しつつ、その行使を代表機関たる議会に委ねる代表制を採用した。他方で国王は「フランス人の王」として国家の首長にとどまり、行政権の中心であり続けると規定された。すなわち絶対王政を否定しつつも、共和政ではなく立憲君主制を維持しようとする折衷的性格をもっていたのである。
権力分立と立法権
この憲法は立法・行政・司法の権力分立を明確に規定した。立法権は一院制の立法議会に属し、議員は一定以上の直接税を納める能動市民による選挙で選出された。国王は法律に対して一定期間の停止権(拒否権)を有したが、同一内容の法律が再可決されれば最終的に承認を拒むことはできないとされた。司法権は選挙で選ばれる裁判官に委ねられ、旧来の特権裁判所は廃止された。
行政制度と地方改革
行政面では、全国を均質な単位で区分するため県制度が採用され、旧来の州・教区区分は整理された。各県・郡・市町村には選挙で選ばれる地方議会が設置され、中央集権と地方自治を調和させる構想が示された。こうした行政改革は、旧体制下で入り組んでいた管轄や特権を整理し、市民の平等な権利行使を保障する目的をもっていた。
市民の区分と選挙制度
1791年憲法は全ての人間の自由と形式的平等を認めながらも、政治参加に関しては「能動市民」と「受動市民」を区別した。一定額以上の直接税を納める成人男性のみが能動市民とされ、選挙権および被選挙権を持った。財産を持たない貧困層や女性は受動市民にとどまり、権利宣言上は「市民」であっても、具体的な政治参加からは排除されたのである。このような制限選挙は、当時のブルジョワ層の利害を強く反映していた。
国王権限と政局の緊張
立憲体制のもとでも国王は行政権の長として軍隊統帥や外交の中心に位置づけられたが、その忠誠は次第に疑われていった。1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件は、国王一家が国外へ逃れようとした事件であり、立憲君主制への信頼を大きく損なった。同年8月には周辺君主国が介入を示唆するピルニッツ宣言が出され、国内の不安と対外危機が重なって政局は一層緊迫した。
財政・経済政策との関連
憲法制定と並行して、教会財産を担保にしたアッシニアの発行や、ギルドと同業組合を禁止するル=シャプリエ法など、経済秩序の再編も進められた。これらの措置は自由な経済活動と国家財政の立て直しを目指したが、物価の変動や失業を生み、都市民衆の不満を高めた。政治制度としての1791年憲法は、このような社会経済的緊張の中で運用されることになったのである。
立憲君主制の崩壊と憲法の意義
1791年憲法に基づく体制は、1792年に立法議会が成立してからわずか1年足らずで崩壊した。対外戦争の拡大と宮廷への不信は王政廃止要求を高め、1792年8月10日の蜂起を経て王権停止が宣言されると、立憲君主制は事実上終焉した。それでもなお1791年憲法は、国民主権・法の支配・権力分立という近代憲法の基本原理を初めて包括的に明文化した点で重要である。その限界や短命さにもかかわらず、後続の共和政憲法や他国の憲法制定に大きな影響を与えた憲法として位置づけられる。