韓国併合|日本による朝鮮併合の帰結

韓国併合

韓国併合とは、1910年に大韓帝国が日本帝国に編入され、朝鮮半島が日本の植民地支配下に置かれた出来事である。日本側では「韓日併合」や「併合」と呼ばれたが、朝鮮側や多くの研究では、主権を奪った植民地化として位置づけられている。1905年の第2次日韓協約によって外交権を失った大韓帝国は、日本の保護国として事実上の従属状態に置かれ、その最終段階として韓国併合が実行された。

韓国併合の成立過程

日露戦争後、日本は韓国に対する優越的地位を国際社会から黙認され、韓国の内政・外交への干渉を一層強めた。1905年の第2次日韓協約によって韓国の外交権は日本の掌中に入り、ソウルには韓国統監府が設置され、統監が韓国政府を指導・監督した。その後も内政干渉が進み、1907年の第3次日韓協約により韓国軍は解散させられ、行政権も統監府の統制下に置かれた。こうした過程を経て、1910年8月、日本の統監寺内正毅と韓国首相李完用の名において韓日併合条約が締結され、同年8月29日に公布されて韓国併合が発効した。

国際情勢と列強の動向

19世紀末から20世紀初頭の東アジアは、帝国主義列強の勢力拡大が進んだ地域であった。日清戦争や日露戦争で勝利した日本は、朝鮮半島が自国の安全保障や大陸進出にとって重要と考え、韓国に対する「勢力圏」を確保しようとした。他方、ロシアや清朝は衰退し、イギリスやアメリカなども自国の利益確保を優先して日本の優越的地位を容認した。このような国際環境の中で、韓国の主権を守る後ろ盾は弱まり、列強の黙認のもとで韓国併合が進められたと理解されている。

植民地統治体制の構築

韓国併合後、日本は朝鮮総督府を置き、軍人出身の朝鮮総督が強大な権限をもって統治に当たった。立法・行政・司法・軍事・警察が総督府に集中し、本国の議会による統制も限定的であったため、「専制的な植民地官僚支配」と評される。警察機構の整備や保安法など治安立法によって、言論・結社・集会は厳しく統制され、独立運動や反日活動は弾圧された。同時に鉄道・港湾・通信網の整備が進み、経済的には日本本土と一体化していく体制が築かれた。

土地調査事業と経済構造の変化

朝鮮総督府は1910年代に大規模な土地調査事業を実施し、土地所有権の登録・整理を進めた。名目上は近代的な地租制度の確立を目的としたが、複雑な慣行や口分田的な共有形態は十分に反映されず、多くの農民が所有権を証明できずに土地を失ったと指摘される。こうして生まれた土地は日本人地主や大企業、朝鮮の一部有力層に集積し、自作農から小作農への転落が進んだ。また、米の増産や鉱山開発、軽工業の立地によって、朝鮮経済は日本への原料供給地・農産物供給地として位置づけられていった。

文化統制と同化政策

日本は教育制度や行政制度を通じて、朝鮮社会を日本の体制に組み込もうとした。公教育では日本語の使用が重視され、歴史教育も日本中心に再編された。神社参拝や皇室への忠誠を求める儀礼も導入され、宗教・思想面でも統制が強まった。1930年代に入ると、創氏改名や日本語常用の徹底など、より強い同化政策が進められ、朝鮮人としての名前や言語を公的空間から排除しようとする動きが強まった。これらの政策は、植民地支配に対する反発や民族意識の高揚を一層促す要因ともなった。

抵抗運動と歴史的評価

韓国併合に対して、朝鮮社会では義兵闘争や地下結社による武装蜂起、宗教団体や知識人による抗議運動など、さまざまな抵抗が続いた。1919年には「独立万歳」を掲げた3・1運動が朝鮮全土に拡大し、日本の植民地支配に対する大規模な抗議行動となった。海外でも亡命政権である大韓民国臨時政府が樹立され、国際社会に独立の正当性を訴えた。戦後の韓国・北朝鮮の歴史認識では、1910年の韓国併合は不法な強制併合であり、民族主権を侵害した事件として位置づけられている。一方、日本国内でも戦後、植民地支配を批判的に検証する研究が進み、併合条約の成立過程や法的性格、被支配社会への影響をめぐる議論が続いている。

第二次世界大戦後の処理

1945年、日本の敗戦により朝鮮半島の日本統治は終結し、韓国併合体制は崩壊した。その後、北緯38度線を境にソ連軍と米軍が進駐し、やがて北朝鮮と韓国という2つの国家が成立した。戦後の条約において、日本と韓国の間では、併合やそれ以前の諸条約がどの時点で無効となったのか、その解釈をめぐる対立が残されたが、植民地支配の時代が政治的・道義的な問題として重く受け止められている点は共通している。現在でも韓国併合の歴史的評価は、歴史認識や謝罪・補償問題と結びつき、日韓関係を考えるうえで重要な論点となり続けている。