農政全書|明末中国の総合農政書

農政全書

農政全書は、徐光啓が17世紀前半の末に編纂した大規模な農政・農学百科である。土壌・耕作・肥培から灌漑・治水、樹園芸・蚕桑、畜産・狩猟、備荒・救済に至るまで、農村社会の生産と統治を総合的に論じ、国家の財政基盤と民生安定を両立させる方策を提示した。古典の知見と現地調査に基づく実証を重ね、制度(政)と技術(術)を架橋したことに特色がある。刊行後は清代を通じて重んじられ、朝鮮や日本でも参照され、東アジアの農政思想と技術革新に長期の影響を与えた。

成立と背景

編者の徐光啓は、官僚として治水と救荒に携わりつつ、農学・数学・天文に通じた実学者である。旱魃や水害、飢饉が周期的に発生した明末社会において、彼は「経世致用」の立場から農政の再編を企図した。古典の集成にとどまらず、各地の耕作法や器具改良の事例を収集・検証し、地方の風土差に即した標準化を試みた点に、同時代の学識と実務経験の統合がみられる。

構成と主要テーマ

農政全書は、多巻にわたり総論と各論を配し、季節暦法と作柄予測、田制・租税、民力の調達、さらに作物別の栽培技術を並置する。制度設計と生産技術を一書に収める編集方針が、国家的視野での農政設計を可能にした。各章は用語を簡明に定義し、作業工程を手順化しており、実務書としての可用性が高い。

土壌・耕作・肥培

土壌の性質を砂壌・粘壌などに分類し、深耕・中耕の使い分け、畝立てと排水路の設計、緑肥・廄肥・堆肥の調合を説く。連作障害を避けるための輪作配置や、覆土厚・条間の具体値を示し、播種から収穫までの作業を段階管理する方法を提示する。病虫害には耕地衛生と耕種的防除を優先し、過剰施肥や過湿を戒める記述が多い。

灌漑・治水と農業土木

水利は農政の根幹と位置づけられ、水源涵養、堤防・堰・樋門の保全、用排兼用の水路網設計を述べる。人力・畜力・水力を活かす揚水装置の改良や、維持管理の人員配当と費用分担の制度設計が記され、公共工事と村落自治の協働を前提とする。これは河川治水と農業生産を一体で捉える近世的発想である。

作物多様性と園芸

穀類(稲・粟・麦)を中心に、豆類・蔬菜・果樹・油料作物の多様な栽培法を掲げる。品種特性と熟期の組合せでリスクを分散し、間作・輪作により土地生産性を高める方策が示される。庭園・果樹園の整枝・施肥・灌水の要点も記され、都市近郊の商品作物生産を視野に入れた点が注目される。

蚕桑・畜産・副業

蚕桑は苗木の養成から条植、病蚕対策、繭の乾燥・貯蔵に至る工程を体系化する。畜産は役畜の飼養管理と厩舎衛生、肥料循環への組み込みを説き、狩猟・漁撈・林産などの副業は季節労働として位置づけ、家計安定と地域経済の補完機能を持たせる。

救荒・備荒と社会政策

飢饉期における公的備蓄と市場介入、種子・農具の貸与、賑恤の手続が整理される。常平の理念に基づき、平時の備蓄・流通ルールを整備して価格の乱高下を抑えること、労役の公平な割当によって水利・道路の維持を保障することが要諦とされる。

知の方法と学術的位置

本書は古典の博捜だけでなく、現場観察と試作・比較による知の積層を重視する。権衡(バランス)と度量(スケール)に拠る数量的把握を推奨し、経験と理法を往還させる点で、後世の実証志向に通じる。思想史的には、道徳修養を重視する陽明学の潮流と並存しつつ、実務知の体系化で補完的役割を果たした。

受容と影響

清初の重刊を経て、各地の官民が手引として用い、日本でも農政・農学の参照典籍として読まれた。博物・本草の知と接続し、李時珍本草綱目と併読されることで、作物・薬草・土壌・水利の総合理解が進んだ。救荒論・治水論の条々は、近世アジアの危機対応の指針となり、農政と自然改造の均衡を探る視座を提供した。

同時代の知的環境

明末には学芸の多様化が進み、異文化知の流入も増した。キリスト教宣教師との交流は暦算・測量技術の刷新を促し、数理的記述の導入を助けた。また文芸・史論の活況は社会の関心領域を広げ、実務知の需要を押し上げた。思想界では李贄の実生活重視の視点が議論を喚起し、知と世用の結合を後押しした。

書誌と受容のかたち

写刻・重刊を通じて版を重ね、官の書庫と民間の農家双方に浸透した。注釈・抄本・抜粋が流通し、各地の実情に合わせた運用が行われた。多分野にわたるため、教育現場では章句ごとの講読や、作物別の輪読が一般的であった。

内容の実践ポイント

  • 土壌と水利を基盤とし、耕作手順を標準化すること。
  • 輪作・間作でリスク分散し、肥培管理を数値と手順で運用すること。
  • 公共工事と村落の協働体制を制度として設計すること。
  • 平時の備荒・流通管理を整備して市場の安定を図ること。

評価と意義

農政全書は、制度・技術・社会政策を統合する「農業国家の設計書」であり、実務に耐える条文化と、風土差への配慮を両立させた点に比類がない。明末清初の転換期に、知の総合と公共性を掲げ、近世東アジアの農村社会を長期に支えた基幹文献である。今日においても、農業土木・作物学・資源循環・防災の総合計画を考える上で参照価値が高い。関連分野は多岐にわたり、絵画や叙述の世界にも農村像が投影されている(例:小説や美術、そして制度史)。その多面的構成は、学際的な地域研究・環境史の実践に適した枠組みを提供している。