赤眉の乱
赤眉の乱は、新末から東漢成立期にかけて山東を中心に蜂起した農民反乱であり、王莽の新が崩壊し、劉秀の東漢が台頭する過程で決定的な役割を果たした運動である。度重なる飢饉と黄河の氾濫、重税と労役、流通混乱が広がるなか、諸郡の自衛的な集団が武装化して結集し、やがて長安に進出して更始政権を動揺させた。彼らは眉を赤く染めて味方のしるしとしたことからこう呼ばれ、後に劉盆子を奉じて一時的に関中を支配したが、最終的には光武帝劉秀によって鎮圧され、天下は東漢に再統一された。
背景と原因
王莽が建てた新は、礼制回復を掲げて急進的な制度改革を断行した。土地の再分配を意図した限田策や貨幣制度の乱発、度量衡の改定は現場の混乱を招き、従来広く流通していた五銖銭の機能をも損なった。加えて黄河の氾濫と蝗害が度重なり、貧民は困窮し、盗賊化と流民化が進んだ。地方官の弾圧と徴発は怨嗟を高め、やがて民衆は自衛のため武器を取り、各地の集団が連絡しあって赤眉の乱の母体が形成された。
蜂起の展開
反乱は東海・琅邪など山東一帯で発し、樊崇らが頭目として軍事組織を整えた。彼らは規律を示すため眉に朱を引き、略奪集団との差異を誇示したと伝わる。新の軍が各地で敗れ、長安の動揺が深まると、緑林の勢力と並行して勢いを増し、やがて関中に進出した。王莽はついに殺され(長安陥落)、新は瓦解したが、反乱勢力の主導権はなお定まらず、軍紀のゆるみが食糧不足と治安悪化を招いた。
更始政権との関係
緑林軍が擁立した更始帝は、漢の再興を掲げたが政治基盤は脆弱であった。関中に入った赤眉の乱の諸軍は更始政権と衝突し、長安は度々戦禍にさらされた。最終的に更始帝は敗走・殺害され、反乱側は劉氏の一族であった劉盆子を帝に推戴して名分を整えた。しかしその支配は短命で、飢饉と軍紀弛緩により民心を失い、隊伍は次第に崩れていった。
東漢の成立と鎮圧
山東出身の劉秀は各地の豪族や旧漢官僚を糾合し、後に東漢を樹立する。彼は兵站を重視しつつ段階的に反乱軍を各個撃破し、名将の活用によって戦線を安定させた。建武年間に入ると攻勢は決定的となり、転戦で疲弊した赤眉の乱の勢力は大規模に降伏した。これにより関中と河北は再統合され、秩序回復が進み、漢王朝は再び長期政権へと向かった。
名称と組織の特徴
- 赤い眉は戦場での識別と団結の象徴であったと伝えられる。
- 頭目として樊崇が知られ、軍内には旧吏や豪族が参画し、多様な出自が混在した。
- 劉盆子の擁立は名分の確保策であったが、行政機構の整備は不十分であった。
- 兵糧は地方徴発と自給に依存し、長期の関中滞陣は補給難を深刻化させた。
歴史的意義
王莽の理想主義的改革が現実の統治能力と乖離していたこと、自然災害と財政悪化が民衆を蜂起へと追い込む条件を整えたことを、赤眉の乱は端的に示した。反乱は単なる暴動ではなく、旧漢的秩序への回帰を求める広域の社会運動であり、東漢の創業者劉秀が軍政両面で柔軟さを示し、再統一の正統性を獲得していく舞台となった点に意義がある。のちの中央—地方関係や関中の人口移動にも長い影響を残した。
主要人物
- 漢の後継者を称した更始帝劉玄—短命の復古政権を主導した。
- 樊崇—赤眉軍の頭目として諸軍を率い、関中進出の原動力となった。
- 劉盆子—反乱側が擁立した幼帝で、名分と統治の乖離を象徴した。
- 更始帝と対峙した劉秀(光武帝)—持久戦と統合策で形勢を逆転した。
年表(概略)
- 18年頃:山東で反乱蜂起、集団が連合して勢力を拡大。
- 23年:長安動揺、新は崩壊。
- 25年:更始政権崩壊、劉盆子の擁立と関中の混乱。
- 27年:東漢の攻勢が決し、赤眉諸軍が大規模降伏して終息。
比較と関連
平準法や均輸法のような国家の市場介入は前漢武帝期に整備されたが、新末の危機では機能不全を露呈した。流通と税制の歪み、貨幣の信認低下は、民衆が自衛組織を作る誘因となり、地方勢力の武装化を加速した。伝統的秩序の回復を願う心理が、劉氏への期待と結びつき、結果として赤眉の乱は東漢国家の形成に不可欠の踏み台となったのである。
地理的基盤と軍制
山東の丘陵と海岸平野は拠点の分散と合流を容易にし、郡県の圧力が弱まると集団は急速に膨張した。指揮系統は頭目と郷里の有力者を軸に緩やかに結ばれ、戦闘では弓弩と歩騎の小規模機動を重ねて官軍を翻弄した。補給は鹵獲と徴発に依存し、長期化とともに農耕と秩序の回復要求が内部から高まっていった。