諸国民戦争|ナポレオン没落を決した諸国決戦

諸国民戦争

諸国民戦争とは、ナポレオン支配に対してヨーロッパ各地の「国民」が蜂起した1813年前後の戦争を指す呼称である。とくにドイツ語圏では、フランス皇帝ナポレオンの覇権からの解放をめざしてプロイセンとロシアを中心に展開された戦争をさし、しばしば「解放戦争」とも呼ばれる。背景にはフランス革命以来の近代戦争の拡大、占領地への重税と徴兵、そしてドイツ・スペイン・ロシアなどで高まった国民意識とナショナリズムがあった。これらの要素が結びつき、ライプツィヒの戦いを頂点とする連合軍とフランス軍の決戦として諸国民戦争が展開されたのである。

ナポレオン支配と諸国民戦争の背景

フランス革命戦争とナポレオン戦争を通じ、フランスはライン川以東にまで影響力を及ぼし、ライン同盟や衛星国家を設けてヨーロッパの政治地図を書き換えた。占領地ではフランス法典の導入や封建制の否定といった近代的改革が進む一方で、対イギリス大陸封鎖令による経済統制や重い軍事負担が住民の不満を募らせた。プロイセンではイエナ・アウエルシュタットの敗北後、シュタインやハルデンベルクらが中心となって軍制・行政・農村社会の改革を進め、農民解放(プロイセン)やプロイセン国制改革が実施された。これらの改革は、のちに諸国民戦争で戦う市民・農民を動員する基盤となったのである。

ロシア遠征の失敗と蜂起の拡大

1812年のロシア遠征でナポレオン軍が壊滅的損害を受けると、ヨーロッパ各地で支配からの離脱と解放を求める動きが一気に広がった。ロシア軍が西へ進撃すると、プロイセン軍の一部はフランスから離反し、ケーニヒスベルクで対仏同盟への参加が宣言された。哲学者フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』は、ドイツ人に祖国防衛の義務を説き、国民意識を鼓舞したとされる。また、スペインではすでにスペイン独立戦争が続き、ゲリラを中心とする抵抗運動がフランス軍を苦しめていた。ポルトガルやポーランドでもポルトガル征服やワルシャワ大公国をめぐる利害がからみ、多くの地域住民が戦争に巻き込まれた。こうして諸国民戦争は、単なる列強どうしの戦争ではなく、各地域の「国民」がそれぞれの祖国を守ろうとする戦いとして性格づけられていったのである。

ライプツィヒの戦いと諸国民戦争の頂点

1813年10月のライプツィヒの戦いは、「諸国民の戦い」とも呼ばれ、諸国民戦争の頂点であり決定的転機となった。この戦いにはロシア・プロイセン・オーストリア・スウェーデンなどの連合軍が参加し、多数のドイツ諸邦軍がフランス軍と戦った。数日にわたる激戦の末、ナポレオン軍は大敗し、ライン川以東からの撤退を余儀なくされた。戦場にはドイツ諸国の民兵や義勇兵も多く参加し、大学生や市民からなる義勇軍の存在は、戦後ドイツで国民国家建設をめざす運動の象徴として記憶されることになる。ライプツィヒの敗北ののち、ナポレオンはフランス本国へ退却し、やがて退位へと追い込まれていった。

  • ロシア・プロイセン・オーストリア・スウェーデンの連合軍参加
  • ドイツ諸邦の民兵・義勇兵の動員
  • ナポレオン軍の敗北とライン以東からの撤退

諸国民戦争の歴史的意義

諸国民戦争は、1814年のナポレオン退位とウィーン会議を通じてヨーロッパの国際秩序を再編する契機となった。同時に、それは王朝のための戦争から国民のための戦争への転換点としても理解される。プロイセンやドイツ諸国では、戦時中の犠牲と努力にもかかわらず、ウィーン体制のもとで自由主義や国民統一の要求は十分には実現せず、その不満が19世紀のドイツ統一運動や1848年革命へとつながっていく。また、スペインやロシア、ドイツでの経験は、国民皆兵・徴兵制・国民教育といった制度を通じて近代国家を形づくる重要な要素となった。こうして諸国民戦争は、単なるナポレオン没落の一局面ではなく、ヨーロッパ各地で国民国家とナショナリズムが台頭していく長期的過程の出発点として位置づけられているのである。

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