西突厥|中央アジア西部を統べた突厥政権

西突厥

西突厥は、6世紀末から7世紀中葉にかけて中央アジア一帯を支配したテュルク系遊牧国家である。初期テュルク可汗国(突厥)が東西に分裂したのち、天山山脈以西の七河流域(セミレチエ)からタラス川・シルダリヤ流域、さらにはタリム盆地北縁のオアシス都市群にまで影響力を及ぼした。王統は阿史那氏で、十部族(十姓)連合を骨格とし、可汗の権威と部族合議による分権的統治が併存した。ソグド商人の交易ネットワークと連動し、シルクロードの要路を扼しながら、唐・波斯系勢力・オアシス諸国と外交・軍事関係を展開した。

成立と地理的基盤

突厥の内紛と外圧のなかで可汗権が動揺すると、西方の部族勢力が自立化し、これが西突厥として固まった。政治的中心はイッシク・クル湖周辺からスイヤーブ、タラス川流域に置かれ、草原の移動性とオアシスの定住社会を結節点で連結した。隊商路を抑える軍事的優位が国家形成の要であり、遊牧の機動力は、遠隔地統治と朝貢・保護関係の維持に資した。

統治構造と十姓体制

国家の中核は「十姓(十部)」の連合で、東側の咄陸(ドル)五部と西側の弩失畢(ヌシビ)五部に大別された。可汗(カガン)は至上権を標榜したが、実務は葉護(ヤブグ)、設(シャド)、吐屯(トドゥン)などの官号をもつ王族・部族首長が分掌した。可汗位の継承は阿史那氏内部の競合を生み、部族間の均衡が崩れると内紛が激化した。こうした分権構造は柔軟性と拡張性をもつ一方、持続的な中央集権化を阻む要因ともなった。

軍事力と外交

草原騎兵の戦力は迅速な遠征と広域の示威に適し、オアシス都市に対しては保護と徴税を組み合わせた支配を行った。外交面では、東方の唐と時に結盟・時に抗争し、西方ではソグド商人や西アジア勢力との関係を通じて国際秩序に組み込まれた。冊封的な儀礼は権威の演出装置として機能し、互酬的贈与や婚姻関係が部族連合の維持と対外均衡に寄与した。

経済基盤とシルクロード交易

  • 遊牧生産:牧畜(馬・羊・ラクダ)を基礎に、季節移動(垂直移牧)で資源を循環させた。
  • 交易利得:通行税・関市税・保護料により、東西交通の結節点として収入を得た。
  • 都市との補完関係:タラス・スイヤーブなどの拠点都市は、隊商保護・物資集散・鋳貨や印章利用の場として機能した。
  • 文化交流:ソグド人は通訳・商館運営・文書作成に長け、宗教や文字文化の伝播にも関与した。

唐との抗争と征服

7世紀半ば、内紛が深刻化した西突厥では、可汗位をめぐる対立が激化した。唐は西域政策を推し進め、安西方面の軍事行動を強化して勢力圏の分断に成功した。決定打は賀魯可汗の敗北で、唐軍の進出により連合は瓦解した。征服後、唐は西域経略の拠点を整備し、保護と統制を組み合わせた体制でオアシス都市を管理したが、草原側では新たなテュルク系政権の伸長を促す結果ともなった。

テュルギシュと後継勢力

西遺領では突騎施(テュルギシュ)が台頭し、タラス川流域を中心に勢力を拡大した。彼らは西突厥の政治装置と交易回路を継承しつつ、唐や周辺部族、オアシス諸国と拮抗した。8世紀に入ると、カルルクやウイグルなどの台頭が草原秩序を再編し、タラスの会戦などを画期として中央アジアの勢力図は新段階に移行した。

宗教・文化の多元性

信仰はテングリ信仰を軸に、仏教・ゾロアスター教・マニ教などが併存した。隊商都市ではソグド人共同体が寺院・火祀施設・マニ教集会所を維持し、王族・部族エリートは実利と威信のために多様な儀礼・記章・称号を受容した。衣装・馬具・金属装飾・紋章(タムガ)は権威表示の媒体となり、美術様式は草原とオアシスの折衷を示す。

制度と法・文書慣行

可汗勅や盟約は口承と文書の双方で伝達され、トドゥンらの巡察は課税・市場監督・隊商保護を担った。法的慣行は慣習法に依拠しつつ、都市社会では契約文書・印章・度量衡が整備された。こうした二重の規範体系は、遊牧と定住の接合地帯という地域特性をよく反映している。

史料と研究

  1. 中国正史(『隋書』『旧唐書』『新唐書』)は政治史・官号・朝貢記事を豊富に伝える。
  2. ソグド文書や貨幣・印章は、交易・都市行政・宗教の実態解明に資する。
  3. 七河流域・タラス盆地の考古学は、馬具・装身具・墓制を通じてエリート文化の変容を示す。

西突厥は、東西ユーラシアの結節点における「連合国家」の典型であり、分権的構造ゆえの脆さと、草原モビリティが生む拡張力を併せ持った。唐による征服は終焉を意味したが、その制度・交易・文化的遺産は後継勢力に受け継がれ、中央アジア史の長期的展開のなかで再配置され続けたのである。