西晋
西晋は、中国の三国時代を収束させた短命の統一王朝である。建国は265年、曹魏の大将であった司馬炎(武帝)が魏から禅譲を受けたことに始まり、280年に呉を滅ぼして再統一を実現した。都は洛陽に置かれ、「太康の治」と称される一時の安定と繁栄をもたらしたが、門閥貴族制の固定化と皇族内の権力闘争が深刻化し、やがて「八王の乱」を経て国家機構は急速に疲弊した。さらに北方遊牧・雑居諸族の進出が重なり、311年の永嘉の乱で洛陽が陥落、316年には長安も失って滅亡に至った。王統は江南に移って東晋へ継承され、華北は五胡十六国の時代に入る。
成立と統一過程
司馬氏は魏の実権を掌握した司馬昭・司馬師の路線を継承し、司馬炎が晋王に封ぜられたのち、265年に魏の元帝から禅譲を受けて晋を称した。対呉戦では水陸の大規模作戦を展開し、孫皓の降伏によって280年に三国鼎立は終焉した。統一後の西晋政権は、戦乱で荒廃した戸籍と田地の再編に着手し、国家的復興を進めた。
政治体制と門閥貴族
西晋の政治は、皇帝権と門閥貴族の均衡上に成立した。魏以来の九品中正制が継承・強化され、名門出身者が高位官職を世襲的に独占する傾向が強まった。皇族には広範な封国が与えられ、宗室王が地方に駐在して軍政を担う体制が整えられたが、これは後に王権分裂の火種となった。
武帝期の施策と「太康の治」
武帝は、占田・課田法を実施して耕地配分と課税単位を再編し、豪族による土地私収の抑制を図った。均田・屯田の経験を活かした兵農再建により生産が回復し、治安も安定して文化事業が進展した。この時期は「太康の治」と称され、短いながらも統一王朝らしい秩序の回復が見られた。
八王の乱と国家の動揺
291年、武帝の崩御後に皇后賈氏の専権と皇族の反発が連鎖し、司馬倫・司馬穎・司馬越ら諸王が互いに兵を挙げる「八王の乱」が勃発した。戦乱は都畿を荒廃させ、官僚制を瓦解させただけでなく、地方での募兵・徴糧の乱発が民心離反を招き、国防力の低下を決定的にした。
永嘉の乱と滅亡
内戦に乗じて北方の諸族(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌など)が勢力を拡大した。311年、劉淵の後継勢力である漢(前趙)が洛陽を陥落させ(永嘉の乱)、皇帝懐帝は捕虜となった。続く316年には長安も陥落し、愍帝が降伏して西晋は滅亡した。北中国は群雄割拠の五胡十六国時代へと転換する。
江南への移動と東晋の成立
王導・桓温ら江南の士族は北方からの流民(衣冠南渡)を受け入れ、317年、司馬睿(元帝)が建康で即位して東晋を樹立した。これは西晋王統の地理的移転であり、北方の喪失と南朝の形成という中国史の大きな断絶・連続を示している。
経済と社会
統一後の屯田再編や占田・課田法は一時的に効果をあげたが、豪族勢力の荘園化は止まらず、租調・徭役の実効性は低下した。内戦で戸籍は散逸し、丁男の逃散が広がる。軍事面では府兵的な色彩が薄れ、私的武装化と傭兵化が進行した。これらは西晋国家の基盤を侵食し、対外防衛の弱体を招いた。
文化・学術・宗教
西晋期は、魏晋玄学の思潮が成熟した時代でもある。名士層は老荘的形而上学を論じ、清談が流行した。史学では陳寿『三国志』が編まれ、後世の史書編纂に大きな影響を与えた。仏教は北方・西域からの流入が続き、寺院経済の萌芽もみられる。
対外関係と辺境
強固な辺境防衛を維持できなかったことが西晋の致命傷となった。河西・并州・幽州など北方の防衛線は内戦で崩れ、鮮卑や匈奴の部族連合が台頭した。西域経営は名目的な継承にとどまり、シルクロードの交易秩序も動揺した。
年表(要点)
- 265年:司馬炎が即位、晋の成立
- 280年:呉を滅ぼし統一、「太康の治」
- 291年:八王の乱始まる
- 311年:永嘉の乱、洛陽陥落
- 316年:長安陥落、西晋滅亡
- 317年:司馬睿が建康で即位(東晋)
歴史的意義
西晋は、三国分裂を収束させた統一直後の制度再建という経験と、門閥貴族制の行き過ぎがもたらす統治の脆弱性を示した。宗室分封と貴族ネットワークの制御に失敗した結果、内乱・外圧が連動し、国家崩壊に至る典型を提供した点に、同王朝の世界史的教訓がある。