藩王国
藩王国とは、イギリスのインド支配下で形式上は在地の君主が統治を続けながら、実質的にはイギリスが宗主権を握った「ネイティブ・ステート(princely state)」を指す概念である。ムガル帝国の衰退後、デカンやパンジャーブなど各地域に成立した諸王国は、戦争と講和、条約締結を通じて東インド会社および後のイギリス本国政府の保護国となり、内政の一定の自治を保ちつつも外交・軍事・財政の重要部分でイギリスの強い制約を受けた。このような藩王国は、イギリスが広大なインド亜大陸を効率的に支配するために用いた間接統治の装置であり、近代インドの政治秩序とナショナリズムの展開を理解するうえで重要な存在である。
用語の意味と基本的な特徴
藩王国という語は、日本語の世界史教科書で、イギリス支配下のインドにおける在地君主国を指す慣用的な訳語として広まった。そこでは、イギリスが直接統治した「直轄州」と区別して、藩主・マハーラージャ・ナワーブなどの称号をもつ君主が、宮廷・儀礼や日常行政を維持していた地域をまとめて藩王国と呼ぶ。英語では「princely state」または「native state」とされ、主権が完全には認められず、イギリスの「宗主権(paramountcy)」の下に置かれた点が特徴である。
藩王国の制度的構造
- 藩王国は、特定の領域と世襲の君主を単位とし、内政・司法・警察・徴税などの日常行政については、自前の官僚制や伝統的支配機構を通じて運営した。
- 外交と対外戦争の権限はイギリスに握られ、マイソール戦争やマラーター戦争などを通じて締結された保護条約により、他国との条約締結や独自の軍事同盟は禁じられた。
- 多くの藩王国は、常備軍の一部をイギリス軍の指揮下に置き、その維持費を「補助同盟(subsidiary alliance)」の名目で負担させられた。これにより軍事面の自立性は大きく制限された。
- 藩王の地位や王位継承もイギリスの承認に依存し、時に「ラプチャーの原則(doctrine of lapse)」が適用されて断絶した王統の領土が直轄州に編入されることもあった。
成立の歴史的背景
18世紀以降、ムガル帝国の権威が弱まると、デカンのマイソール、マラーター同盟、パンジャーブのシク王国、ネパールを支配した勢力とのグルカ戦争など、インド各地で地域勢力が台頭した。東インド会社は、ブクサールの戦いなどで勝利し、ベンガル財政権(ディーワーニー)を掌握すると、軍事力と財政力を背景に各地方勢力に対し保護条約を結ばせていった。その過程で、ティプー=スルタンが戦死したマイソール戦争や、パンジャーブをめぐるシク戦争のような激しい抗争ののち、敗れた在地王国は領土の一部を割譲しつつも、残余部分については藩王国として存続を許されるという形が広くみられた。
イギリス支配と間接統治の仕組み
イギリス側にとって藩王国制度は、インド全土を直接統治するための軍事・行政コストを抑えつつ、伝統的支配層を取り込んで秩序を維持するための手段であった。大規模な直轄州では総督や州知事がイギリス人官僚とともに統治したのに対し、藩王国には「レジデント(resident)」と呼ばれる駐在官を派遣し、宮廷への助言や内政への間接的介入を通じて宗主権を行使した。こうした間接統治は、イギリスが同時期に他のアジア・アフリカ地域で用いた方式と共通しつつも、インドでは数百におよぶ多様な藩王国が存在したため、きわめて複雑な政治地図を生み出した。
藩王国の多様性と社会経済
藩王国と一口にいっても、その規模や社会構造は多様であった。ハイダラーバードのように広大な領土と人口を抱えるものから、ラージプート諸国のような小国まで大小さまざまであり、宗教的にもヒンドゥー教王朝・イスラーム王朝・シク教王朝が混在した。ある藩王国では鉄道・教育・司法制度の導入が進み、一部の支配層はイギリス式の近代化を積極的に受容したが、他方では地主支配の強化や農民への重税によって、マイソールやパンジャーブ、さらにはパンジャーブ併合前後の地域社会のように社会不安が高まる例もあった。
ナショナリズムと藩王国
19世紀末から20世紀にかけて、インドの民族運動が高揚すると、藩王国はしばしば両義的な存在として捉えられた。一部の藩王はインド国民会議派と協調し、大学設立や議会制度の導入など改革的な政策を進めたが、他の藩王国では、藩王と宮廷貴族が特権を維持するためにイギリスと連携し、反英運動や大衆運動に抑圧的に対応した。こうした状況は、のちに全インド的な国家統一を構想するうえで、数多くの藩王国をいかに処理するかという難題を残すことになった。
インド独立と藩王国の統合
1947年のインドとパキスタンの分離独立に際し、数百に及ぶ藩王国は、いずれかの国家への帰属を選択することを求められた。多くは住民構成や地理的連続性に基づきインド連邦への加盟を選んだが、一部の藩王国では藩王や政治勢力の思惑が衝突し、ハイダラーバードやジャンムー&カシミールのように軍事的緊張や紛争を伴う統合過程も生じた。その後、インド政府は再編を重ね、藩王国の領域は州制度のなかに吸収され、藩王への特権的給付も段階的に廃止された。このように藩王国は、植民地期にはイギリスの間接統治を支えた地域支配の単位として機能しつつ、独立後には近代国家への統合と地域アイデンティティの再編という課題の焦点ともなったのである。