聖書のドイツ語訳
「聖書のドイツ語訳」とは、古代以来キリスト教世界の共通訳であったラテン語のウルガタ聖書をはじめとするラテン語本文を、民衆の日常語であるドイツ語に訳した諸翻訳を総称する語である。なかでも16世紀のマルティン・ルターによる翻訳は、宗教史だけでなくドイツ語の形成やドイツ文化に決定的な影響を与えたことで知られる。
ラテン語聖書とドイツ語訳の背景
中世ヨーロッパの公式な聖書は、ヒエロニムスが訳したラテン語のウルガタであり、ミサや神学教育もラテン語で行われた。その一方で、農民や都市の庶民はラテン語を解さず、説教や宗教劇、絵画などを通じて物語を知るにとどまっていた。こうした状況のもと、信仰の物語を自国語で理解したいという要求から、各地で口頭の翻案や部分的な民族語訳が生まれ、ドイツ語圏でも独自の翻訳が試みられるようになった。
ルター以前のドイツ語訳
ルター以前にも、14世紀頃からドイツ語圏では福音書や詩篇などの部分訳、あるいは物語的に再構成した聖書物語が写本として流通していた。これらは修道院や敬虔な貴族・市民層の要請に応じて作られ、宗教教育や黙想の補助として用いられたが、本文の質は一定せず、原典批判もほとんど行われなかった。また、活版印刷術の発達により、15世紀末にはいくつかのドイツ語全訳聖書が印刷されるものの、それらは基本的にラテン語聖書を逐語的に写し取ったもので、神学的・文体的洗練には欠けていた。
マルティン・ルターの翻訳事業
16世紀の宗教改革の中心人物であるルターは、「聖書のみ」を掲げ、信徒が自ら聖書に直接触れることを重視した。そのため、ワルトブルク城での幽閉中にギリシア語原典に基づき新約聖書のドイツ語訳を急速に完成させ、続いて旧約聖書の翻訳にも取り組んだ。ルターは学者としての知識に加え、日常生活で用いられる口語表現を丁寧に採り入れ、農民から都市市民までが理解しやすい自然なドイツ語を目指したとされる。
ルター聖書の特徴と影響
ルターによる「ルター聖書」は、当時の多様な方言を調整し、宮廷や行政で用いられていた書記語を基盤にした統一的な文章語を作り上げた点に特色がある。この翻訳は繰り返し改訂されながら広く普及し、礼拝や家庭での朗読、学校教育などを通じて標準的なドイツ語の形成に大きく貢献した。また、ルター聖書はプロテスタントの信仰生活の中心となり、説教や賛美歌、神学書に多大な影響を及ぼした。
プロテスタント諸派とドイツ語訳
その後、ドイツ語圏のプロテスタント諸派は、それぞれの教義的立場や礼拝の実践に合わせて、ルター聖書を改訂したり、新たな翻訳を作成したりした。敬虔主義や自由主義神学の潮流のなかで、文語的な表現を改める試みや、ヘブライ語・ギリシア語の学問的研究を反映させた批判的翻訳も現れる。これらの諸訳は、ドイツ語聖書の伝統に多様性をもたらしながらも、基盤としてルター聖書の語り口を意識し続けた。
カトリック教会のドイツ語訳
一方、カトリック教会も、トリエント公会議以降、ラテン語の権威を維持しつつ、信徒への教化のためにドイツ語訳を整備していった。カトリック系のドイツ語聖書は、教会の伝統的解釈と教理を反映させることに重点をおき、注解や註釈を豊富に付す傾向があった。こうして、同じドイツ語圏の中に、ルター派や改革派の訳とカトリック系訳が並立し、告解や典礼、教育の場面で使い分けられていった。
近現代のドイツ語訳と学問的研究
近代以降、聖書学や言語学の発展に伴い、原語テキストの研究に基づく新たなドイツ語訳が数多く現れた。これらは古語的な表現を改め、現代ドイツ語話者にとって自然な文体を目指す一方で、歴史的なニュアンスをどこまで保持するかという課題を抱えている。また、学術的注解付きの訳書や、若者向け・共同訳など、多様な目的に応じた聖書が刊行され、ドイツ語圏における聖書理解の広がりと深化を支えている。
ドイツ語と聖書訳の文化的意義
このように、聖書をドイツ語に移し替える営みは、単なる宗教文書の翻訳にとどまらず、ドイツ語そのものの形成や、宗教改革以後のドイツ文化の発展と密接に結びついている。ルター以来の翻訳の伝統は、文学や音楽、思想の領域にも大きな影響を及ぼし、今日に至るまでドイツ語圏の精神史を語るうえで欠かすことのできない要素となっている。