第3次中東戦争
第3次中東戦争は1967年6月に発生した中東の大規模戦争であり、一般に「六日戦争」とも呼ばれる。イスラエルが周辺のアラブ諸国と衝突し、短期間で戦線が広域に拡大した結果、領土支配の変化と難民問題を伴う長期的な対立構造を固定化させた戦争として位置づけられる。
戦争の背景
1950年代後半以降、中東では国境付近の小規模衝突、武装組織の越境活動、軍備拡張が重なり、危機が累積していった。特にエジプトの指導部はアラブ民族主義の旗手として地域的影響力を強め、シリアとの連携も進めた。他方でイスラエルは周辺諸国との軍事的緊張を常態として抱え、抑止と先制の議論が政治・軍事の中枢で強まった。こうした対立の堆積が、偶発的事件を契機に一気に戦争へ転化しうる土壌となったのである。
開戦に至る危機の連鎖
開戦直前には、誤情報や相互不信が連鎖し、危機管理が機能しにくい状況が生まれた。国連部隊の扱いをめぐる判断、海上交通路の封鎖をめぐる対立、同盟関係の誇示などが相互に「引くに引けない」空気を増幅させた。国際連合は事態の沈静化を試みたが、当事国の安全保障判断は短期的な軍事合理性に傾き、政治的妥協の余地が急速に狭まった。
軍事行動の推移
1967年6月5日、イスラエルは大規模な航空攻撃で主導権を握り、続いて地上戦を展開した。戦線はシナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラン高原へと広がり、短期間で決定的な戦況が形成された。とりわけ制空権の獲得は各戦線の機動を支え、アラブ側の指揮・補給・通信に大きな制約を与えたとされる。結果として前線の崩れは連鎖し、停戦交渉に至るまでの時間は極めて短かった。
- 6月5日:航空攻撃を含む大規模戦闘が開始
- 6月6日-8日:シナイ方面で地上戦が進展し、前線が後退
- 6月7日:ヨルダン川西岸で戦闘が激化し、エルサレムをめぐる情勢が大きく動く
- 6月9日-10日:ゴラン高原で攻勢が進み、停戦へ向かう
占領地の形成と停戦
停戦の成立後、イスラエルはシナイ半島、ヨルダン川西岸、ガザ地区、ゴラン高原などを軍事的に掌握した。領土の帰属をめぐる問題は、単なる境界線の議論にとどまらず、住民の地位、行政権、宗教的聖地の管理、難民の帰還権など複数の争点を同時に内包する。ここで形成された占領という現実は、その後の交渉の出発点となる一方で、妥協を困難にする政治的コストも蓄積させていった。
外交枠組みと国連決議
戦後処理では、領土と平和を交換するという発想が国際外交の軸となり、国連安全保障理事会決議242などが基礎文書として参照されることになる。だが、撤退の範囲、承認の形式、安全保障の担保、難民問題の扱いをめぐって解釈は分かれ、条文の抽象性は政治交渉の余地であると同時に対立の温床にもなった。停戦は戦闘を止めても、紛争の構造そのものを解体するには至らなかったのである。
地域社会への影響
第3次中東戦争は、住民移動と難民問題を拡大させ、パレスチナ問題の国際的可視性を一段と高めた。戦後には占領地の統治、入植をめぐる政策論争、抵抗運動の組織化が進み、暴力と報復の循環が政治過程に深く入り込んだ。また、アラブ諸国側では敗北の総括が軍事改革や政権運営の再編を促し、対外政策の選択肢にも影響を与えた。
冷戦構造と大国の関与
当時の中東は冷戦の周縁ではなく、軍事援助と同盟関係が交錯する戦略空間であった。米国とソ連は当事国への支援や外交圧力を通じて介入し、紛争の局地化と拡大の双方を左右しうる立場にあった。戦後の停戦管理と交渉過程でも大国の影響力は持続し、地域紛争が国際政治の力学と結びつく構図が強化された。
その後の中東和平への連結
戦争が残した占領地と安全保障不安は、消耗戦の発生や1973年の第4次中東戦争へとつながり、やがて二国間和平と多国間枠組みの試行を促した。とくにシナイの帰属と国境安全保障をめぐる交渉は、後年のエジプト・イスラエル和平の重要な前提となった。一方で、ヨルダン川西岸やガザをめぐる問題は解決の難度が高く、和平交渉の中心課題として残り続けることになる。