科挙
科挙は、中国において文官を公開試験によって登用した制度であり、門閥・世襲に依存しない官僚補充を可能にした仕組みである。起源は隋末から唐初にさかのぼり、宋代に拡充、明代に方式が定型化し、清末1905年に廃止された。受験者は儒教经典の理解と文章作法を競い、郷試・会試・殿試という段階的選抜を経て中央官僚に到達した。長期にわたり社会的上昇の回路を提供し、士大夫層の形成、中央集権的な官僚制の整備、教育・出版の発展に大きく寄与した制度である。
起源と展開
推挙・任子などの人事慣行から、公的試験による選抜への転換が科挙の核心である。隋で進士科などの科目が設けられ、唐で貢挙として整備された。宋は受験機会を拡大し、官途を試験成績に強く連動させて士大夫を広く動員した。元では一時的な中断や再編を経て再開、明で方式が統一・制度化され、清もこれを継承した。最終的に清末の新政改革の一環として科挙は撤廃され、新式教育と官吏登用の近代化が進んだ。
制度と試験科目
科挙の根幹は儒教の正統学(四書五経)であり、答案は匿名化(糊名)や監督の厳格化によって公正性が担保された。時代により配点や重点は変化するが、骨格は次の通りである。
- 経義:四書五経の文理を解釈し、経注に基づく正解を書き上げる。
- 策問:時政・制度に関する政策提言を論述する長文試問。
- 詩賦・書判:唐宋期には詩文の才や判決文作成の能力も評価対象となった。
- 防弊:答案の字跡隠し、監臨・複閲などの手続で不正を抑止した。
八股文
明清期の代表的作文様式が八股文である。一定の段取りと句式で論旨を展開し、典拠を厳密に引くことが求められた。規範化は採点の客観性を高める一方、形式主義・思考の硬直化を招いたとして批判の対象にもなった。
試験の段階
科挙は地方から中央、皇帝臨場の最終段階へと上がる多層選抜であった。一般的な流れは次の通りである。
- 童試(院試):入門段階。合格者は生員となり、正規受験の資格を得る。
- 郷試:各省都で実施。合格者は挙人、首席は解元と称された。
- 会試:都城で実施の中央試験。首席は会元となる。
- 殿試:皇帝臨場の最終試験。合格者は進士、首席は状元である。
称号と序列
殿試合格者は三甲に序され、第一甲の状元・榜眼・探花は名誉が高く、翰林院など要職への登用が期待された。これらの称号は家門の威信を高め、宗族社会の名望資源となった。
社会的影響
科挙は士大夫層を全国規模で形成し、地方エリートを中央官僚に編入するパイプを提供した。受験を中心に書院・郷校・家塾が発達し、試験需要を背景に出版・書籍流通が活況を呈した。一族は長期的な教育投資を行い、族譜には合格者の科名が記され、家の栄誉と結びついた。他方で学費と時間の負担は重く、地域・身分による不利が残存し、脱落者の多さは社会問題ともなった。
思想・教育との関係
科挙は国家が儒教正統を定義・普及する装置であった。宋以降、朱子学が官学の標準解として定着し、条理に基づく解釈が答案の規範となる。書院は学術共同体として学問と人格の陶冶を掲げつつ、実際には受験指導の機能も担った。これにより倫理・政治・学問が一体化した統治理念が再生産された。
弊害と批判
科挙は能力本位の採用を標榜する半面、八股化による形式依存、暗記偏重、時政よりも文辞評価に傾く傾向が続いた。賄賂・請託の防止は制度的に工夫されたが、完全ではなかった。近代に入ると西学・実学の必要性が高まり、旧来の試験では財政・軍事・技術を担う人材を十分に育成できないとの批判が強まった。
東アジアへの影響と廃止
朝鮮王朝やベトナムでも科挙型の官吏登用が行われ、儒学・漢文教育と官僚制の連動というモデルが域内に広がった。日本では同様の全国的選抜は定着しなかったが、文治主義と学問尊重の理念は受容された。清末1905年、近代国家建設を志向する改革の下で科挙は廃止され、学制・官吏採用は新式学校と近代的試験へ移行した。以後、公務員試験や資格制度などに、実力選抜の理念が継承されることになった。