砂糖法
砂糖法は、1764年にイギリス議会が制定したアメリカ植民地に対する課税・貿易統制法であり、しばしばアメリカ独立への対立を高めた初期の転機とみなされる法律である。主として西インド諸島産の砂糖や糖蜜の輸入に課税し、密貿易を取り締まることで財政収入を確保しようとした点に特徴がある。フレンチ・インディアン戦争と総称される七年戦争後、戦費と植民地防衛費に苦しむイギリス本国政府は、植民地にも負担を求める政策を強め、その先駆けとして砂糖法が位置づけられる。
制定の背景
砂糖法の背景には、七年戦争後のイギリス財政難と、従来のゆるやかな植民地支配からの転換があった。従来、イギリスは重商主義政策のもとで航海・貿易を統制してきたが、その中心には17世紀以来の航海法が存在していた。しかし実際には、北アメリカ植民地と西インド諸島との間ではフランス領・オランダ領を経由した糖蜜の密輸が横行し、イギリス本国の関税収入は十分に上がっていなかった。七年戦争の戦費や、北アメリカに駐留する軍隊の維持費を補うため、本国政府は密貿易の取り締まりと課税強化を通じて「植民地も帝国の負担を分かち合うべきだ」と考えたのである。
法の内容
砂糖法は、もともと1733年に制定されていた「糖蜜法」を改め、税率の引き下げと取り締まり強化を組み合わせた点に特色がある。フランス領西インド諸島から輸入される糖蜜への関税は名目上引き下げられたが、その代わりに徴税官を増員し、税関の権限を強化し、違反者を海事裁判所で裁く仕組みを整えた。これにより、従来は黙認されてきた密貿易が厳しく追及されるようになり、植民地商人にとって事実上の負担増となった。また、砂糖やワイン、コーヒーなど植民地で需要の高い輸入品にも課税が及んだため、ニューイングランド商人を中心に反発が広がった。
植民地社会への影響
砂糖法は、のちの印紙法ほど劇的な抵抗運動を引き起こしたわけではないが、植民地社会に重要な心理的転機をもたらした。とくにニューイングランドでは、ラム酒製造に欠かせない糖蜜の供給が制限され、商業活動が圧迫されたため、商人層はイギリス本国の政策に強い不満を抱くようになった。彼らは、植民地議会ではなく本国議会が一方的に課税を決定することを「代表なくして課税なし」という原則に反すると批判し、論説やパンフレットを通じて政治的議論を活発化させた。この過程で、各植民地の植民地議会の役割や自治権をめぐる意識が高まり、のちの抵抗運動の土台が形成されたのである。
砂糖法と他の課税法との連関
砂糖法は、その後相次いで導入される課税法の「前哨戦」として理解されることが多い。翌年に制定された印紙法は、新聞や公文書などに広く課税したため、庶民にまで直接負担が及び、大規模な抵抗を招いた。また、1767年には輸入品に課税するタウンゼンド諸法が制定され、さらにボストン茶会事件へとつながる茶法が続いた。こうした一連の課税政策のなかで、砂糖法は主に商人層を対象とした比較的限定的な法律であったが、それゆえ早い段階から政治的な論争の焦点となり、のちのアメリカ独立戦争への道筋を示す先例となった。
イギリス本国の視点
砂糖法を推進したイギリス本国政府は、植民地への課税を不当な抑圧とは考えていなかった。七年戦争では北アメリカ植民地防衛のために多大な出費をしており、植民地の安全保障の恩恵を受ける以上、その負担の一部を植民地側も負うのは当然であると主張したのである。また、ジョージ3世の治世下で重商主義的な帝国再編の機運が強まり、財政改革と行政改革を一体的に進めようとする発想もあった。したがって、本国にとって砂糖法は財政再建と帝国統合を進める合理的政策であったが、植民地にとっては自治と経済活動への介入として受け止められたところに、意識のずれが存在した。
歴史的評価
現在、砂糖法は、アメリカ独立前史のなかで「静かな転機」として評価されることが多い。それ自体が決定的な暴動や武力衝突を生んだわけではないが、商人層や知識人の間に、本国議会による課税権や植民地自治をめぐる根源的な疑問を生み出した点が重視される。同時に、密貿易の取り締まり強化は海運業・貿易業に対し、旧来の慣行から法的秩序への転換を迫る契機ともなった。こうした変化は、ボストン茶会事件をはじめとする抵抗運動やボストン茶会事件後の強圧的諸法に連なり、最終的に武装蜂起と独立へとつながっていく。砂糖法は、その意味で、マサチューセッツなど北部植民地の政治文化を変容させ、帝国と植民地の関係が修復困難な方向へ傾き始めた起点のひとつとして位置づけられている。