石橋内閣
石橋内閣は、1956年12月23日から1957年2月25日まで続いた日本の内閣であり、鳩山一郎内閣の退陣を受けて発足した。戦後、自由民主党結成後では初となる党大会での総裁公選によって選ばれた石橋湛山が総理大臣に就任し、「55年体制」下での本格的な保守政権の運営を担うこととなった。しかし、石橋自身の病気療養により、在任期間はわずか65日間という短命に終わった。
内閣の発足と総裁公選
1956年、鳩山一郎が日ソ共同宣言の調印と国際連合への加盟を成し遂げて退陣を表明すると、後継を巡って石橋湛山、岸信介、石井光次郎の3者が争った。第1回投票では岸がトップに立ったが、決選投票において「2位・3位連合」が成立し、石橋が逆転勝利を収めた。この経緯から、石橋内閣は「自民党史上最も民主的な手続きで誕生した政権」と評されることもある。
「五つの指針」と積極経済
石橋内閣は、国民に親しまれる政権を目指し、「五つの指針」を掲げた。特に経済政策においては、大蔵大臣時代からの持論である積極財政を背景とした「一千億円減税、一千億円施策」を打ち出し、国民生活の向上を図った。
- 政治的道義の確立
- 議会政治の正常化
- 雇用増大と福祉国家の建設
- 世界平和の推進と外交の自主性
- 官僚統制の排除
自主外交と日中貿易
外交面において、石橋内閣は対米協調を基軸としつつも、アジア諸国との関係改善や自主的な外交路線の確立を模索した。特に、当時の冷戦構造下において、中国(中華人民共和国)との経済交流を重視し、実務的な関係改善を志向した点は特徴的である。石橋は言論人時代から平和主義と経済合理性を説いており、その思想が反映された経済政策でもあった。
労働政策と社会保障の拡充
石橋は、経済の拡大が労働者の購買力を高め、さらなる景気刺激につながると考えた。そのため、労働組合法などの枠組みの中で、労働者の権利を尊重しつつ、雇用の創出を最優先課題とした。
- 完全雇用の実現を目指す経済成長路線の提示
- 国民皆保険制度の準備段階としての社会保障改革の着手
- 中小企業への金融支援と技術振興の促進
病気退陣と潔い引き際
精力的に全国遊説を行っていた石橋湛山であったが、寒冷地での演説などがたたり、1957年1月末に急性脳梗塞で倒れた。当初は回復が期待されたが、国会審議の停滞を危惧した石橋は、自らの政治的責任を重んじ、病床から退陣を決断した。この潔い辞職は「政治家の鏡」として高く評価され、後継には外務大臣兼副総理であった岸信介が指名され、岸信介内閣へと引き継がれた。
石橋内閣の歴史的意義
石橋内閣は極めて短期間であったため、具体的な法案成立や外交成果を完遂することはできなかった。しかし、自由民主党内の派閥抗争を一時的に克服した民主的手続きや、国民の生活実感を重視した積極的な経済政策の姿勢は、その後の池田勇人内閣による「所得倍増計画」の先駆け的な思想を含んでいたといえる。
内閣閣僚の構成
石橋内閣の閣僚には、後の首相となる岸信介を外務大臣に配したほか、三木武夫(通信大臣)、河野一郎(農林大臣)など、党内の有力者が名を連ねた。この挙党一致の体制は、石橋の強力なリーダーシップと調整能力を期待させるものであったが、石橋の離脱によってその構想は次代に委ねられることとなった。
戦後政治における自由主義の系譜
石橋湛山は、戦前から一貫して「小日本主義」を唱え、植民地支配を否定する自由主義的なジャーナリストとして知られていた。石橋内閣の成立は、軍国主義を経て民主化された日本において、そうした正統派の自由主義者が自由民主党の頂点に立ったという象徴的な出来事であり、日本の民主主義の成熟を示す一つの指標となった。