短期議会
短期議会は、1640年にイングランド王チャールズ1世が召集した議会であり、その会期が約3週間ときわめて短かったことからこの名で呼ばれる。王権強化を図ったステュアート朝の政治と財政危機、スコットランドとの戦争などが重なり、王が戦費調達のためにやむなく議会を開いた結果として生まれた。だが下院の議員たちは、課税承認よりも先に王の専制的支配や違法な課税、宗教政策の是正を優先しようとしたため対立が激化し、議会は十分な成果を挙げないまま解散させられた。この短期議会の失敗は、同年後半に開かれる長期議会と清教徒革命へとつながる重要な前段階であった。
成立の背景
短期議会の背景には、ステュアート朝イングランドにおける王権と議会の長期的な緊張関係があった。先王ジェームズ1世の時代から王は「王権神授説」に依拠して議会の関与を嫌い、チャールズ1世もそれを引き継いでいた。チャールズ1世は一時期、議会を開かずに統治を行う「11年専制」と呼ばれる時期を続け、関税や船舶税などを独断で徴収し、コモン=ローの伝統を軽視した。この専制政治に対する不満は地主や商人層、ピューリタンを中心に高まり、王と議会の対立は構造的なものとなっていた。
スコットランドとの戦争と議会召集
短期議会が召集された直接の契機は、スコットランドとの「主教戦争」である。チャールズ1世はスコットランドに対してイングランド流の礼拝と祈祷書を強制し、長老派教会の伝統を脅かしたため激しい抵抗を招いた。戦争遂行には多額の軍事費が必要であったが、王はすでに各種の臨時課税を乱発しており、社会の不満は限界に達していた。この状況で王が頼ることのできる手段は、議会を召集して正規の税を承認させることであり、1640年4月に短期議会が開かれたのである。
議会の構成と主要人物
短期議会には、地方ジェントリや都市商人など、王権の専制と財政運営に批判的な層が多く選出された。下院ではジョン・ピムらが指導的役割を果たし、王の顧問であったストラフォード伯や大主教ラッドの政策を強く非難した。彼らは、船舶税などの違法とみなされる課税、特定宗派を優遇する教会政策、恣意的な逮捕・投獄などがコモン=ローの伝統や「権利の請願」の精神に反すると主張し、課税承認と引き換えに是正を迫ろうとした。
議論の焦点と王権への批判
短期議会の議論の中心は、王が過去十数年にわたって行ってきた財政・宗教・司法政策の総点検であった。議員たちは、戦費のために新税を認めるより先に、違法と疑われる歳入制度を廃止し、議会の同意なき課税を禁止するよう要求した。また、王が宗教政策を通じて国教会をカトリック寄りに傾けているとの疑念が強く、ピューリタン系の議員は教会組織や礼拝形式の改革を求めた。こうした追及は、王の側近と政策全体の責任を問うものであり、単なる財政審議を超えて王権批判へと発展した。
財政問題と違法課税をめぐる争点
短期議会で最も鋭く争われたのが財政問題である。議員たちは、船舶税や強制借上げなど、議会の承認を欠いた歳入手段を厳しく批判し、その合法性を問いただした。彼らは、イングランドの伝統的な政治秩序において、課税は国王の一存ではなく、議会の同意に基づくべきだと主張し、過去の判例や法慣習を根拠に王権の限界を説いた。これに対して王側は戦時という非常事態を強調し、速やかな課税承認を要求したため、両者の溝は容易に埋まらなかった。
宗教政策と教会をめぐる対立
短期議会では、宗教問題も重要な議題となった。王とラッド大主教の下で推し進められた礼拝儀式の統一や聖職者の規律強化は、ピューリタンにとってはカトリック回帰の兆しと受け取られた。議員たちは、この宗教政策が信仰の自由を脅かし、国外のカトリック諸国との連携を強めるものだと疑った。そのため、王の側近の罷免や教会改革を要求したが、王は宗教政策の譲歩に消極的であり、政治問題と宗教問題が複雑に絡み合って対立が深まった。
短期議会の解散
チャールズ1世は、戦費調達を第一の目的として短期議会を召集したが、議員たちは不満の解消と制度改革を優先して課税を認めようとしなかった。議会が追及を強めるほど、王は自らの権威が損なわれると感じ、議論を打ち切る方向に傾いた。最終的に王は、十分な財政的合意を得られないまま議会を解散し、再び独断的な手段で資金確保を試みた。この突然の解散こそが短期議会の名の由来であり、王と議会の不信は一層深まることとなった。
歴史的意義とその後の展開
短期議会は、直接的な制度改革や財政合意を生み出すことには失敗したが、イングランド政治史において重大な意味を持つ。第一に、それは王権の専制的運営と議会勢力の抵抗が、妥協ではなく対決へと向かっていることを明確に示した出来事であった。第二に、会期中に表面化した不満と要求は、その後の長期議会で本格的に議題化され、やがて清教徒革命と内戦へつながっていく。短期間ながら、この短期議会はステュアート朝イングランドにおける王権と議会の均衡が崩れゆく転換点として位置づけられ、近代的な立憲体制の形成過程を理解するうえで欠かせない節目である。