無政府主義|国家否定から自由秩序を探る

無政府主義

無政府主義とは、国家や政府といった強制的権力そのものを否定し、人々の自発的な連帯と自治によって社会を組織しようとする政治思想である。一般に混同されがちな、暴力と混乱が支配する「無政府状態」とは異なり、権力や階層をできるかぎり排したうえで、秩序ある共同体を築こうとする構想に特徴がある。近代の社会主義や共産主義と並ぶ反資本主義思想の一つであり、労働運動や革命運動の中で大きな影響力を発揮した。

概念と基本的な主張

無政府主義の中心的関心は、国家・資本・軍隊・教会・官僚制などの支配装置が、人間の自由と平等を阻害しているという認識にある。そのため、中央集権的な国家を廃し、地域的な自治団体や職能団体が水平的な連合を結ぶ社会を理想とする。そこでは、法や命令による統制ではなく、相互扶助・合意・契約に基づく調整が重視される。こうした理念は、広い意味でのアナーキズム全体に共通する特徴である。

歴史的起源

初期の思想的源流

無政府主義の思想的前史は、古代以来の権力批判やキリスト教的平等観、啓蒙思想に見いだされるが、近代的な形をとるのは18〜19世紀である。近代国家が形成され、資本主義が発展するなかで、国家と資本の二重の支配に対する批判が高まり、フランスのプルードンは「財産とは盗奪である」と唱えて私有財産制度を批判した。フランスやイギリスの社会思想、さらにはフランス革命後の政治的経験が、その背景にあったとされる。

19世紀ヨーロッパの展開

19世紀後半、産業化とともにヨーロッパ各地で労働運動が広がると、無政府主義マルクス主義と並ぶ有力な潮流として台頭した。国際労働者協会では、国家権力の掌握を重視するマルクス派に対し、国家の廃絶を主張するバクーニン派が対立し、やがて分裂に至った。この対立は、国家を変革の道具とみなすか、それとも抑圧そのものとみなすかという根本的な違いを示している。

思想の諸潮流

相互主義と連邦主義

プルードンに代表される相互主義は、市場交換や小規模所有を一定程度認めつつ、相互信用や協同組合を通じて搾取を排除しようとする立場である。国家権力に代わり、自治的なコミューンや職能団体が連邦を形成するという構想をもち、のちの連邦主義的無政府主義に大きな影響を与えた。この連邦主義の発想は、地方自治やゼムストヴォなどの制度とも比較される。

無政府共産主義と無政府サンディカリズム

クロポトキンらによって展開された無政府共産主義は、生産手段の私有を否定し、共同所有と自由な分配を通じて階級のない社会をめざす立場である。ここでは、相互扶助と分業が自然の協同を生むと考えられた。これと関連して、労働組合を革命の主体とみなし、ゼネストや直接行動によって国家と資本を打倒しようとする無政府サンディカリズムも生まれ、スペイン内戦期の運動などに大きな役割を果たした。

個人主義的無政府主義

一方で、無政府主義の中には、個人の自由と自己決定を極度に重視する潮流も存在する。個人主義的無政府主義は、国家のみならず、共同体や道徳規範による拘束にも批判的であり、権威や伝統からの徹底した自立を求める。この方向性は、近代の自由主義思想や存在主義哲学、さらにはニーチェの権力批判と接点を持つものとして論じられることもある。

国家・資本主義・暴力観

無政府主義は、国家と資本主義を密接に結びついた支配構造としてとらえ、その暴力性を告発してきた。そのため、一部の運動では暗殺などの「行動の宣伝」と呼ばれる暴力的戦術が選ばれ、社会的な恐怖と弾圧を招いた。他方で、多くの理論家は、暴力の連鎖が新たな権威を生む危険を指摘し、教育・宣伝・協同組合活動など平和的手段を重視した。ここでの議論は、のちのロシア革命やレーニンの革命論とも比較される。

ロシアと東欧における影響

ロシア帝国では、農村共同体ミールや農民社会への関心から、無政府主義と近接する思想が生まれた。農民のもとへ赴いて啓蒙活動を行ったナロードニキや、知識人層であるインテリゲンツィアの運動には、国家と専制への根源的批判が含まれていた。こうした運動は、帝政末期の政治的緊張やアレクサンドル2世暗殺事件などとも結びつき、ヨーロッパ世論に無政府主義の名を強く印象づけた。

日本における無政府主義

日本では、明治期に西洋思想が移入されるなかで無政府主義が紹介された。社会主義・自由民権運動・キリスト教思想などと結びつき、日露戦争後には急進的な反戦・反天皇制思想として発展したが、大逆事件を契機に厳しい弾圧を受けた。大正・昭和期の労働運動では、アナーキズム系の労組が活動したものの、国家権力と戦時体制の強化の前に大きな打撃を受けた。戦後も少数派ながら、反戦運動や反基地運動などの中で、国家批判の論理として参照され続けている。

思想史上の意義

無政府主義は、現実の政治運動としては多くの困難と挫折を経験してきたが、権力・国家・暴力の問題を根本から問い直す思想として重要な位置を占める。中央集権的な国家に依存しない自治と連帯の構想、日常生活のレベルから支配関係を問い直す視点は、現代の環境運動やフェミニズム、オルタナティブ経済運動にも影響を与えている。こうした観点から、サルトルをはじめとする現代思想との対話のなかでも、無政府主義の再評価が進められている。