漢城
漢城は、今日のソウルに相当する歴史的都市名であり、古代の百済王都期から李氏朝鮮の首都期、近代の呼称変遷に至るまで朝鮮半島の政治・文化・交通の中枢であった。とりわけ李氏朝鮮では行政単位としての「漢城府」が置かれ、宮城・城郭・街路・市場・学府が複合する都城空間が形成された。地理的には漢江流域の盆地と丘陵に守られ、北漢山と南山を含む自然要害が都市防御と景観を規定した。中国語圏では長らく都市名を「漢城」と表記したが、21世紀に入り対外表記の整理が進み、呼称史の一大転換点となった。
地理と歴史的射程
漢城の核心域は漢江流域で、内陸交通と海上交通の結節に位置した。古代の百済は早期王都を漢江流域の「漢城(ハンソン)」に置き、北方勢力の圧迫で熊津・泗沘へ遷都したと伝えられる(関連:百済)。中世の高麗は都を開城に定めたが、ソウル域は交易・軍事の要衝として独自の都市的発達を続け、近世には李氏朝鮮の首都空間として確立した。さらに古代中国の郡県支配の記憶(帯方郡)もこの地域と関わるとされ、東アジア広域史の文脈で理解されるべき地点である。
前近代都市の形成と構造
李氏朝鮮の建国(1392)後、太祖(太祖)が王都を漢江北岸の漢陽に遷し、間もなく行政名は「漢城府」と整えられた。王都は北の宗廟・社稷、中央の景福宮・昌徳宮などの宮城、成均館や六曹の官庁、市場や住区が計画的に配置され、山稜と川筋を取り込む「自然地形適応型」の城郭(いわゆる漢陽都城)が都市の骨格をなした。儒教礼制が空間配置を規定しつつ、仏教寺院や市舶・手工業の拠点も共存した(関連:朝鮮の仏教)。
呼称の変遷—漢陽・漢城・京城・ソウル
漢城の呼称は時代と表記体系の影響を強く受けた。李氏朝鮮の公称としては「漢陽」→「漢城府」が用いられ、近代の日本統治期には「京城(けいじょう/경성)」が行政名となった。解放後は固有語の「ソウル」が広く定着し、ハングル・ラテン転写・漢字表記の間で対外表記の標準化が図られた。中国語圏でも21世紀に表記見直しが進み、従来の「漢城」に代わる表記が一般化している。
- 建国直後:王都を漢陽に設定、のち行政名として漢城府を整備
- 近代:植民地期の行政名は「京城」(Keijō/Gyeongseong)
- 戦後:固有語「ソウル」が事実上の国際標準に
- 対外表記:中国語圏では21世紀に「首爾(首尔)」を採用
政治・経済・文化の中枢
漢城は朝鮮王朝の官僚制・科挙・礼制の舞台であり、中央官庁と学府が集中した。宮廷需要は手工業と市場を活性化し、漢江水運を介した物流が王都経済を下支えした。周辺の山城・関門と舟運拠点が結節して防衛と流通が両立する構造を作り出し、儒学者の活動や国家儀礼が都市の象徴性を強化した。前王朝の高麗都城(開城)の経験は、宮城—市街—外郭の重層配置や礼制空間の構築など、都づくりのノウハウとして継承・再編された。
都市空間の骨格—都城・城郭・街路
都城は自然地形に沿う城壁(四大門・小門)と放射・環状の街路で構成され、王宮—宗廟—社稷の「国家の三点」が軸線を形成した。市場・手工業地・居住地は勅定によって用途分離がなされ、都市衛生や防火も配慮された。城門は軍事・徴税・交通管理の拠点であり、城外の渡津・倉庫・市は内陸と海上ネットワークを媒介した。こうした空間設計は、朝鮮戦乱や近代化の局面でも骨格を保ち、名称や制度が変わっても都市機能の継続性を示した(近現代の影響は朝鮮戦争も参照)。
広域史の中の漢城
漢城は東アジアの王朝交替・冊封秩序・交易圏の変動に鋭敏に反応する都市であった。高麗から李氏朝鮮への転換では、王権の象徴空間と官僚制の再編が都城に反映し、広域の外交・流通・宗教政策が都市空間を更新した。北方勢力の南下、海域ネットワークの伸張、近代列強の介入といった波が、名称・制度・景観に重層的な改変をもたらした。呼称や表記の変更は、単なる言語問題ではなく、国際社会における自国表象の再定義という政治文化的課題でもあった。
補足:表記・呼称の注意点
史料上の「漢陽」「漢城府」「京城」「ソウル」は、時代・制度・言語的文脈の差異を反映する。研究・執筆では、対象年代の行政名・通称・対外表記を区別し、必要に応じて原語(韓:서울、漢字:漢城/漢陽、日:京城、中:首爾)を併記すると理解が明瞭になる。