漢代の社会と文化
漢代の社会と文化は、秦の中央集権体制を継承しつつ、儒教を国家理念として制度化し、東アジア世界の基本秩序を形作った時代である。前漢は武帝期に版図を拡大し、後漢は豪族勢力の伸長と地方社会の自立が進むなど、政治構造と社会のダイナミズムが交錯した。官僚制の整備、貨幣経済の浸透、学術と宗教実践の重層化、シルクロードを介した対外交流が総合して、都城から農村に至る生活文化と価値観を規定したのである。
中央集権と官僚制
漢は三公九卿を頂点とする官僚体系を整え、郡県制により皇帝権力を末端まで及ぼした。地方統治では太守・県令が租税徴収・治安・訴訟に当たり、文書行政が精緻化した。武帝期には内廷機関の強化が進み、蔭位・恩蔭による登用もみられたが、基本は才能と名望を基準とする推挙方式である。
郷挙里選と察挙
人材登用は郷挙里選・察挙の枠組みで、郷里の評判に基づき孝廉などの徳目を備える者を地方官が中央へ推挙した。のちの科挙とは異なり筆試中心ではないが、儒学的教養が評価の基礎であった。
郡県制と地方社会
郡県制は戸籍・田租・徭役の単位を明確化し、農村支配を可能にした。里甲的共同体は治安と相互監視を担い、宗族のネットワークが婚姻や相続を通じて農地経営を支えた。後漢になると豪族が郷里で学館を開き、門生故旧の人的ネットワークが政治社会を動かす基盤となった。
儒教の国教化と学術
董仲舒は天人感応の思想により儒学を国家正統と位置づけ、武帝は五経博士を設置して経学教育を制度化した。博士弟子は仕官への通路を得て、経学の注釈・訓詁が専門化した。司馬遷『史記』、班固『漢書』などの編年・紀伝体史書は、政治倫理と歴史叙述の標準を示した。
文字と書物
隷書の普及が書記の効率を高め、石経の刻立は経典の標準化を促した。後漢の蔡倫は製紙法を改良し、羊皮紙や竹簡に比べて軽便な紙メディアが学術と行政の拡大を支えた。
経済構造と貨幣・税制
均輸・平準によって物価安定を図り、塩鉄専売は財政基盤を強化した。五銖銭が通貨標準となり、市場の流通が活性化する一方、徴発・軍需が農村に負担を与えた。小農経営は基本であるが、豪族の土地兼併が進み、客作や佃戸の関係が拡大した。
土地と身分
自作農・小作人・奴婢が並立する土地秩序のもと、戸籍と算賦が租税負担を規定した。武装力を持つ地方豪族は、荘園的経営と私的保護を通じて地域社会の有力者となった。
都市・交通と生活文化
都城長安・洛陽は宮殿・官署・市を備えた政治経済の中心で、官道と驛伝が軍事・情報の循環を担った。都市では行楽・市易が発達し、農村では祖先祭祀と年中行事が共同体の紐帯を強めた。衣食住は麻・絹の衣、粟・黍・稲の主食、瓦葺家屋の普及に特徴がある。
宗教・信仰と祭祀
国家レベルでは郊祀などの国家祭祀が整えられ、皇帝は天命を体現する宗教的権威を帯びた。他方、陰陽五行や方術、祠廟信仰が民間で広がり、後漢末には天師道や太平道に代表される救済宗教が社会不安に呼応して台頭した。
葬制と美術
墓室壁画・画像石・明器の豊富な副葬は、来世観と社会秩序の象徴化を示す。写実的かつ象徴的なモチーフは、政治的徳目や吉祥を視覚化する装置として機能した。
法と秩序
秦律を継承しつつ儒家倫理を吸収した法体系は、礼と刑の調和を志向した。地方官の裁断は成文法と慣習の折衷で、連座・徒役などの刑罰が運用された。盗賊鎮圧や辺境防衛は軍政と司法の境界を曖昧にし、武辺と文治の均衡が課題となった。
対外関係とシルクロード
匈奴に対しては和親と征討を使い分け、張騫の西域開拓以後、シルクロード交易が本格化した。汗血馬・絹・胡椒・玻璃器などの物産交流は、宮廷文化と都市消費を刺激し、異文化の宗教・技術・芸能をもたらした。
社会構造と家族
父系的家父長制の下で宗族が経済と儀礼を統御し、女性は婚姻や家政で重要な役割を担った。劉向『列女伝』などが徳目を規範化したが、現実には寡婦の財産管理や女医・巫の活躍など多様性が存在した。奴婢や賤民層は労働力として社会を下支えした。
知と表象の遺産
天文暦学・医薬・冶金・水利の知が制度と結びつき、国家の持続性を高めた。史家による人物評と筆法、儀礼・法・学の総合は、後世の政治文化に規範を提供した。漢代が築いた中央集権・儒教イデオロギー・文書行政・流通網は、以後の東アジア世界に長期の影響を与え続けるのである。