治安維持法
治安維持法は、1925年に制定された日本の刑事特別法であり、「国体の変革」や「私有財産制度の否認」を目的とする結社・運動を処罰対象とした法律である。第一次世界大戦後の社会不安と革命運動の高まりの中で、生まれつつあった大正デモクラシー的な政治の自由を、大きく制約した点で重要である。この法律は社会主義者・共産主義者のみならず、労働運動、農民運動、朝鮮・中国出身者の民族運動など、広範な政治的・思想的活動を弾圧する根拠となり、戦前日本の思想統制を象徴する存在となった。敗戦後に廃止されるまでの約20年間にわたり、日本の政治・社会に深刻な影響を与えた。
制定の背景
第一次世界大戦後の世界では、ロシア革命の成功を背景に共産主義運動が国際的に広がり、日本でも労働争議や小作争議が激増した。1918年の米騒動以降、社会不安は高まり、1922年には非合法政党として日本共産党が結成されるなど、支配層にとって体制変革への危機感が強まっていた。他方で、普通選挙要求運動や政党政治の発展により、日本の政治は「大正デモクラシー」と呼ばれる比較的自由な時期を迎えていた。1925年に男子普通選挙を認めた普通選挙法(日本)が成立すると同時に、政治的自由の拡大に対する「歯止め」として治安維持法が制定され、選挙権拡大と思想弾圧の強化が同時進行するという特徴的な構図が現れた。
法律の内容
治安維持法の中心は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ、若ハ之ニ加入シタル者」を処罰する規定にあった。「国体」とは天皇主権体制を指すと解され、「私有財産制度の否認」は社会主義・共産主義思想の否定を意味した。初期の法定刑は、主導的立場の者に対して10年以下の懲役刑などとされ、結社の指導者だけでなく、単なる加入・協力も処罰対象となった。また、結社そのものだけでなく、機関紙の発行、資金提供、場所の提供など、運動を支える周辺行為も幅広く取り締まりの対象とされた。こうした規定は、憲法上の結社の自由や言論の自由を大きく制約し、政党政治が進展していた時期の背後で、厳しい抑圧の仕組みが整えられていたことを示している。
- 国体変革・私有財産制度否認を目的とする結社の禁止
- 結社の組織者・指導者のみならず、単なる加入者も処罰
- 運動の宣伝・資金・施設提供など周辺行為も処罰対象
- 政治的・思想的運動一般への広範な適用の可能性
改正と厳罰化
1928年のいわゆる三・一五事件では、日本共産党関係者を中心に多数の活動家が一斉検挙され、その後の取り調べと裁判を通じて治安維持法の運用が本格化した。この過程で政府・内務省は、既存の刑罰では運動を抑えきれないと判断し、同年の改正で国体変革を目的とする行為に対しては死刑・無期刑を含むより重い刑罰を導入した。これにより、同法は単なる社会運動規制法から、体制そのものに対する「挑戦」を文字通り生命の危機にさらす法律へと転化したのである。さらに1930年代には軍部・官僚の発言力が強まり、法文上明確でない行為にも、拡張解釈を通じて適用が広がった。政党政治が後退し、軍部主導の政治に移行していく過程で、政党内閣(日本)の時代に生まれたこの法律は、逆に政党政治を圧殺する道具として機能するようになった。
三・一五事件と四・一六事件
1928年の三・一五事件および翌月の四・一六事件では、日本共産党とその関係団体に対し、全国的な一斉検挙が行われ、多数の逮捕・起訴がなされた。これらの事件は、治安維持法が実際にどのように運用されるかを示す象徴的な出来事であり、その後の改正と厳罰化の直接的な契機となった。多くの活動家が長期刑を受けたほか、取り調べや監獄生活の過酷さにより健康を害する者も少なくなかった。こうした一連の弾圧は、戦前日本における「赤色思想」排除政策の転換点として位置づけられている。
運用と思想弾圧
治安維持法の運用において中心的役割を担ったのが、特別高等警察(特高)である。特高は社会主義者・共産主義者だけでなく、労働組合、農民組合、キリスト教系や新興宗教団体、さらには朝鮮や中国出身者による独立運動組織などを監視し、取り締まりの対象とした。数万人規模の人々が検挙され、そのうち数千人が起訴されたとされ、思想・信条そのものが国家によって問題視される体制が形成されたのである。弾圧の中では、いわゆる「転向」が強く促され、思想を放棄して体制への忠誠を誓うことが釈放や刑の軽減の条件とされた。作家・学者・労働運動家など、多くの知識人がこの圧力のもとで転向を余儀なくされ、戦前の日本社会における言論・学問の自由は一段と狭められた。こうした動きは、後に戦争体制を支える国民精神総動員や、関東大震災以降の社会不安の中で強まった排外主義とも結びつき、全体主義的な社会の形成に寄与したと評価されている。
廃止と戦後の評価
1945年の敗戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)は、民主化政策の一環として治安維持法を重大な人権侵害法規とみなし、その廃止を日本政府に命じた。同年には「治安維持法等ノ廃止ニ関スル勅令」が公布され、同法および関連法規は失効し、多くの政治犯・思想犯が釈放された。戦後制定された日本国憲法は、基本的人権の尊重や思想・良心の自由、表現の自由などを明文で保障し、戦前のような包括的思想弾圧法規を認めない体制を志向した。戦後の歴史学や法学において、治安維持法は大日本帝国期の権威主義的支配を象徴する法律として批判的に位置づけられ、同法によって起訴・処罰された人々の名誉回復も、徐々に進められていった。
歴史的意義
治安維持法は、戦前日本における議会制と弾圧体制が同居した矛盾した政治構造を示す典型例である。一方で選挙権の拡大や政党政治の発展が進みながら、他方では体制批判的な思想や運動を根本から破壊しようとする装置が整備され、それが1930年代の軍部台頭と戦争体制の構築を支える基盤となった。大日本帝国憲法のもとで保証されたはずの言論・結社の自由が、実際には法律や行政権力の運用次第で容易に制限され得たことは、立憲主義の脆弱さと、権力監視の仕組みの重要性を教えている。今日、大正デモクラシー期から戦時体制への転換を学ぶ際、政党内閣(日本)や普通選挙法(日本)とともに治安維持法を位置づけることは、自由と安全保障、民主主義と国家権力の関係を考えるうえで欠かせない視点となっている。