殷と周
中国古代史において殷と周は、王権の性格と社会秩序の編成原理が大きく転換した連続王朝として位置づけられる。殷(商)は祖先祭祀と卜占に支えられた神権的王権を特徴とし、青銅器文明の宗教儀礼を中核に都市と氏族ネットワークを統御した。これに対し周は「天」と「天命」を掲げて征服の正当性を理念化し、宗法と封建制によって広域の諸侯を編成・分節化する政治技術を確立した。両者は黄河流域の自然と技術の連続性を保ちつつ、支配正統性の言語と社会の結合様式を刷新した点で、中国文明の基層構造を形作ったのである。
成立と年代観
殷は前2千年紀中葉に形成され、後期には安陽の殷墟に王都を据えたと理解される。王統は血縁と氏族的秩序に支えられ、征伐と祭祀を循環させて支配を維持した。周は前11世紀頃、牧野の戦いで殷を破り、西周を開いた。その後、王都の移動と周辺勢力の伸張を経て、体制は東周期の春秋・戦国へ連続する。年代は考古編年と文献伝承を交差照合するが、考古学的指標(器物型式・遺構層位)が年代表現の精度を高めてきたのである。
政治構造の差異
殷の政治は王が最高の祭司である神権王権で、王家と貴族氏族の連帯が軍事・徴発・儀礼を担った。周は征服後、宗法(嫡長子相続を軸とする家族序列)に基づき、同姓・異姓の諸侯を封じ、王権—諸侯—卿大夫—士の階層を整序した。これにより、王権の直轄支配から、恩賜と血縁・婚姻による分権的支配へと重心が移る。統治原理は、占問による神意の即時判断から、礼と法度の体系化へと制度化されたのである。
正統観と思想装置
殷は上帝と先祖霊の威徳を拠り所とし、卜辞により軍事・農事・疾病などの可否を決する宗教政治を展開した。周は「天命」の概念を導入し、徳を失えば天命は革(改)るという可換的正統論(易姓革命)を明示した。これは征服の倫理化であり、徳治イデオロギーの起点である。礼楽秩序の強調は地方支配の規範を提供し、儀礼=秩序=政治の等式を社会に浸透させた。
経済・生業と技術基盤
殷周期の主穀は粟・黍を中心とする畑作で、牛馬豚の飼育と狩猟が併存した。殷は青銅器の鋳造技術が高度で、宗教器(鼎・爵・鬲など)が大量生産され、権威の可視化装置として機能した。周代には青銅器が礼制の符号体系として再配列され、分封秩序の記憶媒体となる。やがて鉄器の普及と貨幣の流通は東周以降に加速し、生産と戦闘の様式を変容させたが、その萌芽は西周末から観察される。
文字・記録と情報統治
殷は甲骨文字により占問内容・祭祀日程・軍事遠征などを記録した。これは政策決定の痕跡を残す行政文書であり、王権の情報統治を支えた。周では金文(青銅器銘文)が顕著で、冊命・賞賜・功績の記録が増え、王と諸侯の関係を公開性の高いモノとして刻印する。媒体の差は、意思決定の回路(神託中心か、王命の公布中心か)の違いを映すのである。
都市・遺跡景観
殷墟は王陵区・宮殿宗廟区・手工業区・居住区が分化した複合都市で、車馬坑や青銅器工房の集積が確認される。周の都城は鎬京・豊鎬など複都制が知られ、宗廟・社稷・朝廷の空間配置が礼制に適合するよう設計された。諸侯国では城郭・道路・水利が整備され、分封ネットワークの節点としての都城が政治・儀礼・交易を統合した。
軍事と支配拡張
殷の軍事は戦車戦と歩兵の組み合わせで、王直属の軍団が遠征を指揮した。周は諸侯軍の動員と会盟による連合戦を得意とし、冊封と軍事協力の均衡で版図を安定させた。武器は青銅製戈・矛・鉞が主で、東周期には歩兵・騎兵・弩の比重が増し、戦闘の集団戦術化が進展した。軍事は祭祀・封爵・土地分配と不可分で、戦勝は礼制秩序の再確認でもあった。
社会秩序と法
殷の社会は氏族共同体の序列が強く、殉葬や大型墳墓に階層差が明瞭であった。周は宗法・井田制といった規範的枠組みで土地と血縁を結合させ、役(労役)と賦(租税)の配分を制度化した。刑と礼は相補的に運用され、礼は身分秩序の内面化、刑は越境行為の抑止を担った。これにより、広域支配のコストを下げる「規範による統治」が機能したのである。
歴史的意義
殷は宗教的カリスマが政治を統御する段階の極致であり、周はその正統性を抽象理念へと翻訳して普遍化した段階である。殷の実在性は遺物・遺構が実証し、周の支配技術はその後の王朝国家のモデルとなった。両王朝の差異は断絶ではなく、宗教から理念、占問から礼制、氏族から制度へという長期的シフトのなかで理解されるべきである。
用語メモ
- 天命:徳による正統観。失徳すれば改易されるという可換性を含む。
- 宗法:嫡長・庶支の序列で家と政治を接続する周の家族原理。
- 封建制:王が諸侯に土地と権限を与え、忠誠と軍役を課す制度。
- 甲骨文字:殷の占問記録。政策決定の情報基盤。
- 金文:青銅器銘文。冊命・功績の記録媒体。
- 殷墟:殷後期の都城遺跡。王陵・工房・車馬坑を伴う複合都市。