武韋の禍|李隆基台頭へつながる宮廷政変

武韋の禍

武韋の禍とは、唐の中宗(李顕)復位後から睿宗復位・玄宗即位へ至る過程(705〜713年)にかけて、武氏一族と韋后一党が皇権を壟断し、朝政を混乱させた一連の政争である。神龍の政変(705)で武周が倒れ唐が復されたのち、武則天の外戚である武三思が韋后と結び権勢を振るい、売官や誅戮、排斥が横行した。やがて太子李重俊の反乱(707)、中宗急死(710)を経て、臨淄王李隆基と太平公主が挙兵する唐隆の変(710)で韋后・安楽公主らが誅され、唐の皇統は辛うじて立ち直る。だが後続の先天の変(713)まで宮廷内の権力抗争は尾を引き、唐王朝は中期の全盛に先立つ深い動揺を経験した。

背景―武周の遺産と中宗復位

705年、張柬之らが神龍の政変を起こして武則天を退位させ、中宗が復位した。だが武氏外戚の影響力はなお強大で、宮廷人事や官僚昇進の基準はゆがめられた。武周期の寵臣排除と引き換えに、復位直後の唐廷は恩賞と復権の配分をめぐって対立を抱え込み、政局は構造的な不安定に陥る。

権力構造―武三思と韋后の専権

武三思は武則天の甥で、中宗の皇后・韋氏(韋后)と姻戚的人脈を築き、皇帝の寵愛を受ける安楽公主(中宗の娘)とも結託した。彼らは上表・弾劾・密奏を駆使して反対派を退け、皇帝の裁可を形式化した。中宗は親政の体裁を保ちながらも、実際の人事と財貨の流れは韋后・武三思の手中に収斂した。

政治的弊害―売官・外戚政治・報復

  • 売官横行:位階・刺史・京官の授与が財貨・贈賄と結びつき、官僚制の規律が崩れた。
  • 外戚政治:皇后・公主の推挙による抜擢が常態化し、清議の伝統が後退した。
  • 報復と排斥:告発の乱発で政敵粛清が続き、士大夫の言論は萎縮した。

事件の推移―太子の変から中宗急死へ

707年、太子李重俊は武三思・武崇訓の専権に抗し挙兵し、両人を討った。しかし支援は広がらず、太子は敗死して皇統の危機だけが残った。710年、中宗が急死すると、同年号の詔勅や記録は韋后・安楽公主の関与を示唆し、女帝即位の布石が進む。韋后は臨朝称制を開始し、武周再来の様相を帯びた。

唐隆の変と収束

710年、臨淄王李隆基(のちの玄宗)と太平公主が宮廷クーデタを決行し、韋后・安楽公主を誅殺した(唐隆の変)。これにより睿宗が復位し、皇統は回復する。ただし朝廷内の主導権は李隆基と太平公主の間で揺れ、緊張は持続した。

先天の変と体制再編

712年、睿宗は李隆基に譲位して玄宗が即位した。だが翌713年、玄宗は先天の変で太平公主派を粛清し、ようやく軍政・財政・任官の一元化が進む。ここに至って、宮廷内の外戚・内廷勢力が皇帝権に優越する構造は大きく後退した。

評価と歴史的意義

武韋の禍は、女帝武則天の改革遺産と外戚・内寵の政治文化が、復唐後の制度的均衡を侵食した過程として位置づけられる。科挙・法制・財政の形式は維持されつつも、実質は寵倖と収奪に傾き、政治倫理(清議)と行政効率の双方が傷ついた。結果として、宮廷クーデタが連鎖し、軍事と禁軍の掌握をめぐる競合が皇統の安定を脅かした。

社会・経済への影響

売官と罰金型の処断は、地方での租庸調の負担増や徴発の恣意化を誘発した。州県は中央の権力争いに追随して人事が頻繁に入れ替わり、徴税・治安の継続性が損なわれた。長安の商人・豪族は権門と癒着し、財貨は宮廷に収斂して公共財政の予見可能性が低下した。

年表

  • 705年:神龍の政変―武周崩壊・中宗復位
  • 706–707年:武三思台頭、韋后一党の専権確立
  • 707年:太子李重俊の変―武三思・武崇訓を誅すも鎮圧
  • 710年:中宗急死、韋后臨朝称制/唐隆の変で韋后・安楽公主誅殺、睿宗復位
  • 712年:睿宗が李隆基に禅譲(玄宗即位)
  • 713年:先天の変―太平公主派粛清、統治体制の再編

主要人物補説

韋后は中宗の皇后として外廷人事を主導し、安楽公主は勅命を背景に利権配分に関与した。武三思は武氏一族の代表として復唐後の実権を掌握したが、強権と買官の蔓延を招き、太子の反発を誘発した。対する李隆基は禁軍・近衛の掌握で一挙に形勢を覆し、のちの開元期の基盤を作った。

制度史的含意

本事件は、近臣・外戚・内廷(后妃・公主)・禁軍の四者関係が皇帝権と均衡を取り合う唐の宮廷政治の弱点を示す。文官官僚制と科挙は形式上整備されていても、任官過程が腐敗すれば統治能力は著しく低下する。玄宗初期の集権化は、この反省を踏まえた危機管理の成果であった。