桂=タフト協定|日米が韓国と比島支配を相互承認

桂=タフト協定

桂=タフト協定は、1905年7月、日本の首相桂太郎とアメリカ合衆国陸軍長官ウィリアム・タフトとの会談にもとづいて成立した極東問題に関する秘密了解である。日本の朝鮮半島における優越的地位と、アメリカのフィリピン統治とを相互に承認しあう内容を含み、日露戦争後の東アジア国際秩序を形づくる一要因となったと理解されている。この了解は、批准をともなう正式の条約ではなく、いわゆる「カツラ・タフト覚書」として残された会談記録にすぎないとする見解も強いが、日本の韓国保護国化と併合、さらには米日関係の性格を考えるうえで重要な史料とされる。日英同盟やポーツマス条約とあわせてみると、日本が列強との協調を通じて帝国主義体制に組み込まれていった過程を示す象徴的な出来事である。

歴史的背景

19世紀末から20世紀初頭にかけての東アジアは、列強の帝国主義的進出が本格化した地域であった。日清戦争後、日本は朝鮮半島への影響力を強めようとしたが、ロシアは満州と朝鮮に勢力を伸ばし、両国は対立を深めていく。一方、アメリカ合衆国は米西戦争の結果フィリピンを獲得し、太平洋における新興の植民地保有国となった。清朝では義和団事件と北清事変を契機に列強の軍事的干渉が進み、門戸開放や領土保全をめぐる攻防が続いた。このような状況のもとで、日本は韓国に対する保護国化の国際的承認を求め、アメリカはフィリピン統治の安定と安全保障を重視したのである。後世には、こうした帝国主義の展開に対する批判的な思想家としてニーチェサルトルが知られるが、当時の列強政府はむしろ力の政治の論理に基づき行動していた。

協定の内容

  • アメリカ側は、日本が韓国において「指導的地位」あるいは保護国としての立場を確立することに干渉しないとの姿勢を示した。
  • 日本側は、アメリカのフィリピン統治を承認し、フィリピンに対して軍事的・政治的な挑戦を行わないことを約束した。
  • 両国は、中国における領土保全と門戸開放の原則を再確認し、極東の平和と安定のために協力することを確認したとされる。
  • これらは国会で審議された条約条文ではなく、桂とタフトの会談をもとに作成された覚書という形で整理され、後に外交史料として発見された。

締結の経過

1905年、日露戦争が継続するなかで、タフトはフィリピン総督として極東視察の途上に日本を訪問し、東京で桂太郎と会談した。桂は第1次桂内閣の首相として戦争指導と講和工作を担っており、アメリカの中立的立場と将来的な仲介に期待していたと考えられている。タフトはセオドア・ルーズベルト大統領の意向を受け、日本との協調を図る任務を帯びていた。会談は非公開で行われ、通訳と外交官が立ち会うかたちで複数回にわたり意見交換がなされた。その内容を整理したものが、のちに「カツラ・タフト覚書」と呼ばれる文書であり、これにもとづいて桂=タフト協定と総称される秘密了解の存在が知られるようになった。

秘密了解としての性格

桂=タフト協定は、日本・アメリカ両国の議会で批准されておらず、正式の条約や協定ではない。このため、その法的拘束力や外交上の位置づけをめぐって学界では議論がある。一部の研究者は、覚書はあくまで会談内容の整理にすぎず、両政府が公式に合意した文書とはいえないと指摘する。他方で、現実の外交過程においては、この了解が暗黙の前提として機能し、日本の韓国保護国化やアメリカのフィリピン統治に対する黙認を支えたとみる立場も存在する。こうした密かな了解は、後世の植民地支配批判やサルトルらによる反帝国主義的な議論と対比されることもある。

国際関係への影響

桂=タフト協定は、その直後に成立したポーツマス条約と密接に関連して理解される。アメリカは日本・ロシア間の講和を仲介する見返りとして、日本の韓国における優越的地位を事実上承認し、日本はアメリカのフィリピン支配に異議を唱えないことで両国の利害が調整された。日本は日露戦争の勝利を背景に、1905年の第2次日韓協約により韓国を保護国化し、1910年には韓国併合に踏み切る。この過程で、アメリカは表立った反対を行わず、国際社会における批判も限定的であった。一方、アメリカは太平洋方面での安全保障を確保し、フィリピンの基地化を通じて太平洋への進出を進めた。こうした動きは、列強が自国の勢力圏を線引きして相互承認する帝国主義外交の典型例といえる。

評価と歴史学上の議論

桂=タフト協定の歴史的評価は、時代とともに変化してきた。戦前日本では、この了解の存在自体がほとんど知られておらず、韓国併合やフィリピン支配に対する道義的検討も十分ではなかった。第2次世界大戦後、外交史料の公開が進むと、この協定はアメリカが日本の朝鮮支配を事実上容認した「密約」として批判的に語られるようになった。他方で、近年の研究では、覚書の文言と実際の政策決定過程を慎重に検討し、協定の影響力を限定的に評価する見解も示されている。とはいえ、日本とアメリカという新旧の帝国主義国が、東アジアの人々の運命を当事者不在のまま取り決めたという構図そのものが、植民地支配の問題点を象徴しているといえる。のちの時代におけるニーチェサルトルによる権力批判や人間の自由をめぐる思想、さらには産業社会を支えた軍需生産とボルトのような工業製品に至るまで、帝国主義と近代文明の関係を問い直す議論は広がりを見せているのであり、その出発点の一つとしてこの協定を位置づけることができる。