東突厥|草原覇権を回復した第二可汗国の興亡

東突厥

東突厥は、6世紀中葉に興起した突厥可汗国の東方政権であり、阿史那(アシナ)氏を君主とする草原の遊牧帝国である。552年頃、土門(ブミン)可汗がモンゴル高原に初期政権を築き、そののち突厥は東西に分立した。なかでも東突厥はオルホン川流域とオトゥケンの聖地を拠点に、契丹・靺鞨・鉄勒などの諸族を糾合し、北アジアの隊商路と草原の軍事回廊を押さえた。可汗は「天」を敬うテングリ信仰に基づくカリスマ的支配を掲げ、唐朝や西域諸国との朝貢・通商・略奪を併用して勢力を拡大した。

起源と阿史那氏の主導

阿史那氏はアルタイ山麓の鍛冶集団に由来すると伝えられ、部族連合を組織することで東突厥の骨格を作った。初期の可汗はテングリの加護を強調し、軍功に応じた分封と婚姻同盟によって諸部を束ねた。政治の中心は草原の祭祀空間オトゥケンで、遊牧移動に合わせて王廷(オルド)が転移する可動的な都制をとった。これにより広域の牧畜経済と軍事動員が可能となり、シルクロード北路の関与を通じて絹・毛皮・馬などの交易品が可汗財政を支えた。

隋との関係と東西分裂

581年に中原で隋が建つと、可汗位の継承争いと対外関係の揺らぎが重なり、突厥は東西に分裂した。隋は互市や和親・冊封を通じて東突厥の内部対立を利用し、遊牧勢力の均衡を図った。東方の政権は大興城方面への南下圧力を強める一方、しばしば干害・寒波などの気候ショックと家畜疫病に直面し、それが略奪遠征と和親要請のサイクルを生んだ。強力な可汗の下では軍事的牽制が奏効したが、権力が弱体化すると周辺の薛延陀・契丹らが離反し、草原の重心が揺らいだ。

唐太宗の征服と可汗の降伏(630年)

唐の成立後、太宗は辺境の安定化を最重要課題とし、李靖らを主将として対東突厥作戦を断行した。630年、唐軍は頡利可汗を捕縛し、強勢を誇った東突厥は崩壊した。太宗は草原諸部を内属化し、長城以南に可汗部を安置して羈縻支配を進めた。これにより唐は中華帝国と草原帝国の双方を統合する「天下」構想を誇示し、草原側も唐の市場・物資・保護を取り込むことで再編の機会を得た。唐は辺防の都督府・都護府を配し、封冊と官爵付与で首長層を序列化したが、遊牧側の自立志向は残存した。

再興と第二可汗国(682–744)

7世紀末、闕特勒(イルテリシュ)可汗が草原で蜂起し、いわゆる東突厥第二可汗国が再興した。続く莫賀咄(カパガン)可汗の下で勢威は最頂点に達し、唐辺境への軍事圧力と朝貢・通商の両立に成功した。ビルゲ可汗とクルテギンは内政整備と法度の明文化を進め、参謀トニュククは草原の機動戦・奇襲を基軸とする戦略を理論化した。オルホン碑文は自民族の言語で政治理念・歴史叙述・対唐外交の理屈を刻み、草原帝国の自己意識を示す金字塔となった。しかし8世紀半ば、内紛と勢力疲弊の隙をつかれ、744年にウイグル諸部の連合により帝国は瓦解した。

  • 主要人物:イルテリシュ可汗/カパガン可汗/ビルゲ可汗/クルテギン/トニュクク
  • 主要史料:オルホン碑文(ビルゲ可汗碑・クルテギン碑・トニュクク碑)
  • 年代目安:630年唐太宗の征服、682年再興、744年ウイグルにより滅亡

統治構造・軍事・経済

東突厥の統治は可汗家(阿史那氏)とテグン・ヤブグなどの王族、タルドゥシュ等の有力部族長による合議体制を取り、軍事は騎射に熟達した部族連合の連携で運用された。軍事遠征は略奪のみならず、牧地・水源の確保や交易路の関税掌握を目的とし、冬営地と夏営地を結ぶ移動と補給線が戦略の核心であった。経済面では家畜資源と朝貢・互市による流通利得が重要で、唐側の絹・鉄器・穀物と、草原側の馬・毛皮・良鷹などが交換された。可汗は分配権を通じて被統合部族の忠誠を維持し、祭祀や戦勝儀礼で統合意識を強化した。

勢力圏と周辺諸民族

東突厥の勢力圏はオルホン・トルゴイ平原からゴビ砂漠北縁に及び、北はサヤン・バイカル方面、東は契丹の地、西はアルタイ・イリ方面へと伸びた。草原の秩序は鉄勒・回鶻(ウイグル)・薛延陀・契丹・靺鞨など複数の集団の離合集散で成り立ち、可汗位の権威が弱まると包摂と離反が交互に起こった。唐は冊封・互市・軍事行動を状況に応じて使い分け、草原の均衡と長城線の安全保障を図ったが、再興後の東突厥は独自の外交・軍事で主導権を争い続けた。

宗教・文化・言語

信仰はテングリと地母神を中心とする自然崇拝で、可汗の権威は天意の体現とされた。狩猟・騎馬・弓術・鷹狩は貴族文化の核で、金属工芸・革細工・毛織は交易品としても重要である。言語は古トルコ語であり、オルホン碑文に見られる古代トルコ文字(ルーン風文字)は自民族史の記録として稀有で、遊牧帝国が自らの来歴・教訓・統治理念を文字により後代へ伝えた点で画期的であった。

用語と史料上の注意

漢文史料では「突厥」は広義のトゥルク系集団を指し、時期により東突厥・西突厥・回鶻などの区別が変動する。『隋書』『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』は中原王朝の視点から記し、戦果誇張や敵対勢力の矮小化が混在するため、オルホン碑文など草原側の一次史料と突き合わせて読む必要がある。地名・人名は漢字音写に揺れが多く、同一人物が複数表記で現れる点にも留意すべきである。