東フランク
東フランクは、843年のヴェルダン条約によりフランク王国が三分された際に成立した王国であり、ドイツ地域を中心に部族公国(バイエルン、ザクセン、フランケン、シュヴァーベン、のちにロートリンゲンの一部)を抱え、10世紀にはオットー朝の下で「神聖ローマ帝国」形成へと接続した政治体である。カロリング家の伝統を継承しつつ、在地諸侯・司教団との合意によって王権を運営する構造が特徴で、マジャル人の侵入やスラヴ諸族との抗争、イタリア政策など対外関係を通じて王権の再編が進んだ。英語ではEast Franciaと呼ばれ、史学上は「初期中世ドイツ王国」の中核段階として位置づけられる。
成立と領域の概観
東フランクはルートヴィヒ2世(ドイツ人ルートヴィヒ)の王国として出発し、870年のメルセン条約・880年のリブモン条約などを経てロートリンゲン(ロタリンギア)をめぐる変動を経験した。主要領域はライン川以東からエルベ川方面に及び、アルプス北麓から北海沿岸まで広がる。宮廷は定住都市ではなく巡幸を基本とし、王は在地有力者からの支持を得ながら支配を維持した。宮廷文化の記憶はアーヘンなどカロリング期の拠点に連続性をもつが、実態は可動的な王権であった。
政治構造と部族公国
東フランクの政治は、部族公(公爵)が支える地域ブロックによって特徴づけられる。王は諸公・伯・司教を統合し、授与(恩貸)・保護・裁判・軍事動員を通じて関係を組織化した。公国は固有の慣習とネットワークを保持しつつも、王権による承認・交渉を通じて秩序に編入された。
- バイエルン公国:ドナウ上流域の大公国で、東辺境の整備に関与した。
- ザクセン公国:ハルツ山地周辺を基盤とし、のちのハインリヒ1世・オットー1世の台頭を支えた。
- フランケン(フランコニア):マイン川流域の中核地域で、王権と在地貴族の接合点となった。
- シュヴァーベン(アレマンニア):上ライン・上ドナウを押さえ、修道院ネットワークが厚い。
- ロートリンゲン:西中部との境域で帰属が揺れ、勢力均衡の焦点となった。
王権と選王制の萌芽
カロリング家断絶後(911)、フランケン公コンラート1世が推戴され、ついで919年にザクセン公ハインリヒ1世が諸侯合意により王に選出された。ここに「選王」の慣行が萌芽し、在地勢力との合意と儀礼によって王権が再確認される枠組みが成立する。司教・修道院長の動員や(王権に依拠する)伯の任命は、のちの帝国教会政策の素地となった。
対外関係と軍事
東フランクは北海沿岸からアルプス北麓に至る広域を守備し、マジャル人(ハンガリー)・スラヴ諸族・デーン人に対応した。イタリア政策ではラテン世界の皇帝権承継を視野に入れ、王権の威信とネットワーク拡張を図った。
マジャル人とレヒフェルトの戦い(955)
955年、アウクスブルク近郊のレヒフェルトでオットー1世が大勝し、遊牧的奇襲に対応した重装騎兵・在地軍制の整備が成果を上げた。これによりマジャル来寇は沈静化し、王権は軍事的威信を確立、イタリア遠征と皇帝戴冠(962)への道を開いた。
スラヴ境域と辺境統治
エルベ川以東ではスラヴ諸族との攻防が続き、北辺・東辺に「辺境伯(マルク)」が置かれた。のちに「オストマルク」(のちのオーストリア)や北方辺境が形成され、行政・布教・防衛を兼ねる制度が発達した。辺境支配は辺境伯の軍事指揮と入植・租税を組み合わせる点に特色があった。
宗教・王権・帝国観
東フランクの王は司教座や修道院に特権を与え、その対価として軍役・行政支援を得た。司教は在地貴族に対抗しうる王権の支柱となり、のちの「帝国教会体制(Reichskirchensystem)」へ通じる。ローマ教皇との関係では、カロリング期のカールの戴冠に象徴される帝権伝達(translatio imperii)の記憶が重視され、オットー1世の皇帝戴冠により再び帝国理念が具体化した。
経済・社会構造
経済は農業と牧畜を基盤とし、河川交通と市の発達、銀山(ハルツ周辺)などの資源が王権財政を下支えした。荘園制の展開とともに、王・諸侯・教会・家臣(のちのミニステリアーレス)間の主従関係が階層化する。修道院改革の波はガリア・イタリアから伝播し、規律の再建と文書行政の整備が進んだ。
カロリングからザクセン、帝国へ
ドイツ人ルートヴィヒの系譜はカロリング末期に弱体化し、911年に断絶。コンラート1世を経て919年にハインリヒ1世、936年にオットー1世が即位する。955年の軍事的成功を背景にイタリア政策を強化し、962年に皇帝戴冠を受けて「神聖ローマ帝国」創出へと段階的に到達した。学芸面ではカロリング=ルネサンスの遺産が写本文化・王権儀礼に息づき、宮廷・修道院で知的伝統が継承された。
主要年表(簡略)
- 843年:ヴェルダン条約で三分
- 870年:メルセン条約で再配分
- 911年:カロリング断絶、コンラート1世
- 919年:ハインリヒ1世が推戴
- 955年:レヒフェルトの戦いでマジャル人撃退
- 962年:オットー1世が皇帝戴冠
用語・史料と研究視点
史料上の表記はFrancia orientalis(East Francia)で、フルダ年代記・プリュムのレギノー、王権文書群などが基礎をなす。研究上は「カロリング的普遍王権の継承」と「地域諸勢力の自立」の相克が主題であり、巡幸王権、授与儀礼、司教制の政治化、辺境の軍事植民など多角的分析が進む。辺境統治は巡察使や伯職の活用と連動し、在地監督の技術として展開した。
地理・文化的連続と隣接世界
東フランクは西フランク・中部フランクとの境域であるロタリンギアを介してラテン世界と接続し、北東ではスラヴ世界、南東ではドナウ中流域(アールパード朝)と対面した。軍事的脅威であったマジャル人はやがて洗礼と定住国家化に進み、境域秩序は再編される。宮廷・修道院文化は写本・聖遺物崇敬・典礼を通じて共有され、アーヘンやドナウ上流の拠点はカロリング的記憶の媒介となった。遊牧・騎射の脅威に対処する中で、騎士的戦闘様式・在地防衛施設の発達も促された。
意義
以上のように、東フランクはフランク的普遍王権の枠組みと在地的秩序の折衷の中で成熟し、ザクセン朝の下で帝国化を果たした。辺境の整備、公国・教会の統合、王権儀礼の洗練は、のちの神聖ローマ帝国の制度的・観念的土台である。初期中世ヨーロッパにおける政治統合のダイナミズムを理解するうえで、東方境域を抱えたこの王国の経験は不可欠である。