東ゴート王国|テオドリック治下のゲルマン王国

東ゴート王国

東ゴート王国は、5世紀末から6世紀半ばにかけてイタリア半島を中心に存続したゲルマン系ゴート人の王国である。建国者はテオドリック(通称テオドリック大王)で、彼は東ローマ皇帝ゼノンの委任を受けてオドアケルを討ち、493年にラヴェンナで政権を樹立した。支配の核心は、ローマ帝国の統治枠組み(元老院・官僚制・都市制度)を活用しつつ、軍事を担うゴート人と行政・税制を担うローマ人を並立させる「二重共同体」にあった。宗教面ではアリウス派の王権とカトリック多数派との調和をはかり、対外的にはビザンツ、フランク、ヴァンダルとの均衡外交を展開した。6世紀のユスティニアヌス帝の「ローマ帝国再征服」に伴うゴート戦争で体力を消耗し、553年に滅亡した。

成立:フン帝国崩壊からイタリア支配へ

アッティラ没後にフン帝国が瓦解すると、東方で圧迫を受けていた東ゴート人はパンノニアからバルカンを移動し、東ローマ帝国の勢力圏に入った。ゼノンはテオドリックにイタリア遠征の大義名分を与え、493年、ラヴェンナでオドアケルを排除して新体制を樹立した。これが東ゴート王国の起点であり、以後ラヴェンナは政治・軍事の中枢となる。

テオドリックの統治:ローマ継承と二重共同体

テオドリックの政治は、ローマ的正統性の継承に特色がある。ローマ人の都市評議会や元老院を尊重し、徴税・司法はローマ法の枠内で運用、軍事はゴート人が担う分業が維持された。王命令(エディクトゥム・テオドリキと伝わる)や書記長官カッシオドルスの文書(『書簡集 Variae』)は、王権がローマ的行政語彙を取り込み、各都市の公共事業・治安維持・大土地所有の調整を行った事実を示す。

宗教と文化:アリウス派と知識人の活動

王家はアリウス派だが、住民多数派のカトリック教会を保護し、宗派対立の回避に努めた。ラヴェンナの建築群に象徴される石造・モザイク美術は、王権の威信とローマ文化の継続を体現する。哲人官僚ボエティウスはラテン哲学伝統を継承し、テオドリック期の学芸の高さを物語るが、のちに政治対立から処刑され、王権とローマ貴族層の緊張関係も露呈した。

対外関係:ビザンツ・フランク・ヴァンダルとの均衡

テオドリックは王女アマラシンタらを介した縁組外交で、地中海西・北方のゲルマン諸王国との連携を図った。一方、東ではビザンツ(東ローマ)と名目的な宗主・被宗主関係を装いつつ自立性を確保した。フランク王国の台頭はイタリア北方の勢力均衡を変化させ、テオドリック没後の東ゴート王国はその調整に苦慮することになる。

王位継承と内政の不安定化

526年のテオドリック没後、幼王アタラリックの下で母后アマラシンタが摂政となるが、ゴート貴族層との軋轢は深まった。テオダハドの専横やローマ人エリートの離反は、二重共同体の均衡を崩し、ビザンツの介入を招く契機となった。

ゴート戦争(535–554)と滅亡

ユスティニアヌス帝は帝国再統一の一環としてイタリア遠征を開始した。将軍ベリサリウスはラヴェンナを陥落させ(540年)、王ヴィティゲスを捕縛。続いて名将トーティラが反攻して都市を奪回するが、ナルセスの大軍が554年までに主要拠点を制圧し、王テイアがモンス・ラクタリウスで戦死(553年)して東ゴート王国は終焉を迎えた。戦争は都市・農村を荒廃させ、イタリアの人口・財政・インフラに長期の損耗をもたらした。

制度・経済・軍事の特徴

  • 制度:ローマ官職名の継続、都市参事会の機能維持、司法のラテン語運用が確認できる。

  • 経済:大土地所有と徴税の再編により公共事業(街道・水道・城壁)の維持を志向したが、長期戦で財政は逼迫した。

  • 軍事:ゴート重装騎兵と同盟部族の複合軍。イタリアの要塞網と海上輸送の掌握が勝敗を分け、ビザンツの機動・補給が優位に立った。

歴史的意義

東ゴート王国は、ローマ的行政・都市文化を意識的に継承したゲルマン王国の典型であり、中世西欧の「ローマの長い影」を理解するうえで重要である。二重共同体の試みは宗教差・法的身分差を抱えつつも、都市社会の連続性を確保した。また、ビザンツの再征服とフランク台頭のはざまで、地中海世界の覇権構造が再編される過程を示す歴史的事例でもある。ラヴェンナの記念建築、カッシオドルスやボエティウスの著作は、王国の政治文化の厚みと、その終末に至る内外の圧力を後世に伝えている。

主要人物

  • テオドリック(在位493–526):建国者。ローマ的制度の継承と治安回復を主導。

  • アマラシンタ:摂政。ローマ人エリートとの協調を志向。

  • トーティラ(在位541–552):反攻を主導し一時的に王国を再建。

  • カッシオドルス/ボエティウス:行政と学芸を担い、文書と哲学で時代を記録。